kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

アニメ三ツ星カラーズ第4話「なつまつり」のことしか考えられなくなってしまいました。

 タイトル通りです。アニメ三ツ星カラーズ第4話「なつまつり」のことしか考えられなくなってしまいました。正確に言うと三ツ星カラーズ第4話「なつまつり」Bパート後半のさっちゃんと結衣の「赤松さーん、だってさ!結衣なのに!」「い、いいのっ!」のことしか考えられなくなってしまいました。月末締め切りのレポートがあるんですが、全く手がつかないのでとりあえずこの感情を文章化して楽になろうという試みです。

 三ツ星カラーズを見ていない人はいないと思うので(それは例えば、君が代を知らない日本人がいないように。)作品紹介などは省略します。第4話B

パートはさっちゃんと琴葉が町の祭りでの結衣の踊りを見物した後結衣の学校のお祭りに遊びに行く話でした。カラーズのメンバーの中で結衣は違う学校に通っているんですよね。習い事とかをしていない場合、小学生の交友関係って普通は同窓で閉じているものだと思うのですが、彼女たちはどういう経緯で知り合ったのでしょう。以前ゆゆ式について書いた時に関係性の非対称性が生む物語の立体感についての話をした気がしますが、三ツ星カラーズについても同じことが言えます。この物語の立体感が最もよく表れているのが第4話「なつまつり」Bパート後半のさっちゃんと結衣の「赤松さーん、だってさ!結衣なのに!」「い、いいのっ!」であると僕は考えるわけです。

ところで、『第4話「なつまつり」Bパート後半のさっちゃんと結衣の「赤松さーん、だってさ!結衣なのに!」「い、いいのっ!」』は少し長すぎるのでこのやり取りに簡潔な名前をつけることにしましょう。そうですね、「色彩」なんてどうでしょうか。いいですね。これにします。

 僕はなぜ色彩のことしか考えられなくなってしまったのでしょうか。

さっちゃんは結衣の小学校で開催されている夏祭りに遊びに来ました。結衣の学校なのですから、もちろん結衣の友達がいます。それはさっちゃんの知らない子たちであり、彼女たちは「赤松さん」という、少しよそよそしい、自分の知らない呼称で結衣を呼びます。友人たちと話す結衣。知らない学校の、知らない校庭で、さっちゃんは何を思ったのでしょう。嫉妬?優越?不安?好奇?あるいは、なにも思わなかったのかもしれません。でも、とにかく、少しだけいたずらっぽい顔をした後に、茶化しながらこう言った。

「赤松さーん、だってさ!結衣なのに!」

カラーズのメンバーを下の名前で呼ぶ結衣は、学校の友人のことを苗字で呼んでいました。学校の友人との、微妙な距離感。このままで良いのでしょうか。もっと仲良くなりたいのでしょうか。きっかけを掴むのは、実に難しい。赤松結衣と、カラーズのリーダー結衣。どっちが本物かなんて、きっと本人にもわからない。やんちゃなメンバーが、赤松結衣を茶化します。

「い、いいのっ!」

 創作は時として現実ではあり得ない純度の感情を精製します。そしてその感情は、角度を変えるたび、様々な色で輝きます。僕はその色彩が、たまらなく好きなのです。

ナナシスポエム2


  STAYGOLDの歌詞には随所に「虹」という単語が登場する。虹というのはもちろん、晴天の空の下には現れない。なぜ青空になることを望んだ少女たちは、虹の歌を歌ったのだろう。

  

ねぇ奇跡みたいな僕らはみんな

いつかは消えてしまうけど

ひとつひとつの光が

いつまでも(色褪せない)

黄金のメロディ


  H-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!からハルカゼまで、777SISTERSの全体曲としてリリースされた曲は全部で7曲。それぞれが違った色の輝きを持つこれらの曲は、777SISTERSがいなくなった後もきっと僕らの心に残る。


  "伝説"が全てを壊したあとの世界でアイドルになった少女たちにとって、"終わり"はとても身近なものだった。STAYGOLD/スタートラインはそんな彼女たちが初めて明確に、真っ向から終わりと向き合って歌った歌なのだ。そして終わりを見ることは、次の始まりを見ることである。夜が明ければまた青空が広がるように。花が散っても種は残り、また次の春に芽がでるように。あの日見た虹が今も心の中で輝き続けるように。


 彼女たちの最後の輝きがメモリアルライブになるのか、あるいはもう少し続くのか、僕にはわからない。

でも、彼女たちはもう"スタートライン"に立っている。


ナナシスポエム1

(http://kramija.hatenablog.com/entry/2017/03/25/163534)

空想世界の感情にまつわる力学系について

人間と人間の間に成り立つ感情の相互作用を力学におけるn体問題として考えてみたいと思います。空想世界における感情の相互作用を十分な精度で近似するために必要なnの値は現実世界におけるそれに比べてはるかに小さく済むでしょう。現実世界を生きる人間たちが、良かれと思って弾いた球が巡り巡って予想外な結果(時としてそれは損害という形で自らに返ってくる)を引き起こす、いわば"カオスな力学系"で生きることに疲弊し、弾いた球が予測可能で規則的な振る舞いを見せる空想世界の力学系で安息を得ることが多いのも頷けますね。

もちろんあえて複雑な感情の体系用意する空想世界も多く存在し、その時人々は現実世界でも起こりうる人間関係の挙動に息を呑み、胸を打たれ、笑い、涙を流します。しかし大半の、特にキャラクターの日常にスポットを当てたアニメにおいて感情の体系は非常にシンプルです。それゆえ視聴者もあるキャラAからの感情の入力に対するキャラBの感情の出力にのみ集中することができ、背後にある伝達関数について脳の容量を割く必要がない。

 ところが時として、逆にその省略された伝達関数について様々に想いを馳せる二次創作的な解釈が人気を博すこともあります。「このキャラは実は〜で、云々」「きっと○○のことを心の底では××だと思っていて、云々」

これらの解釈は基本的に現実世界と同程度な複雑さを持った力学系を前提として創作されます。「空想世界におけるある入力を現実世界で行ったらどうなるか」という空想はしばしば破滅的な結果をもたらし、それは空想世界において予想される出力とは大きく異なり、そのギャップを見て人々は喜ぶ。

柳田理科○という人の書いた空想科○読本という本を読んだことがある人も多いと思います。これは空想世界における(先ほど用いた比喩的でない、原義の)力学系で起こる様々な現象を、現実世界の力学系において実践したらどんな破綻が起きるか、ということを面白おかしく解説した本で、僕も理科を少し学んだ小学生くらいの頃によく読んでいました。本格的に物理や化学、数学を学んでみると空想科学読○の中で展開される理論は非常に乱雑で、時として明らかな誤りを含んでいたことに気づき今となっては全く興味を消失してしまったわけですが、先ほど述べた二次創作的な解釈の方法はこの空○科学読本的な性質を少なからず備えていると僕は思うわけです。

空想世界で何の不便・不自然さもなく成り立っている人間関係を取り上げて「○○は発達障害」「○○は同性愛者(※注1)」などと、アニメキャラに現在現実世界で何かしらの「不便さ」を持った性質を当てはめる遊びを見るのは正直不快で、困ったなあと思っています。それも空○科学読本のくだらなさになんてとうの昔に気づいているような人々が、感情分野に関しては未だに空想科学読本してるわけで、これは困りものです。まあ困ったなあというただそれだけの話でこの記事は終わるんですが、はい、まあ、困ったなあ。(みんなアニメは素直に見よう!)


※注1

お分かりかと思いますが、同性愛者を批判する意図は全くないです。ただアニメキャラを同性愛者判定するオタクが多くないですか?ということを言いたかっただけです。別にその空想世界において同性愛と異性愛の区別が明示的に存在しないならわざわざこっちの世界の言葉である同性愛者という言葉を当てはめなくていいじゃん。

響け!ユーフォニアム2第9話の話

 今回は響け!ユーフォニアム2の話をします。2は無印に比べれば難解なシーンが少なく素直に見られるんですが、第9話「ひびけユーフォニアム」だけは個人的に各シーンの意味がすごく拾いにくかったです。特に中世古先輩があすか先輩の靴紐を結ぶシーンは最初見た時頭の中がはてなマークで埋め尽くされました。一見したところあのタイミングで中世古先輩が登場すること自体が物語に何か重要な意味を持つとは思えないんですが、靴紐を結ばれているあすか先輩の意味ありげに隠された表情とそれを見た久美子の緊張感がすごく力を入れて描写されている。顔を見た久美子の反応からあまり良い表情をしていないことが推測できますが、なぜ靴紐を結んでくれている人をそんな顔で見なければならないのかが場面から得られる情報だけではさっぱりわからない。僕は原作を読んでいないのでなんともいえないんですが、原作にあったにしろなかったにしろ京都アニメーションさんがあんな大事な回に意味もなく意味ありげなシーンを挟み込むとは思えません。だったら頑張って意味を汲み取るのがオタクの役目だろう、ということで頑張って自分なりに意味を汲み取ろうというのがこの記事です。それではよろしくお願いします。

 

 田中あすかは型破りな人間ですが、同時に“型破り”という型に押し込められた人間です。一期であすかがドラムメジャーを務めたときを思い出してみてください。彼女がその役割を完遂するずっと前、練習を始めた当初から彼女がやり遂げる前提で話が進んでいました。誰も結果を待たずに、ドラムメジャーという大役を成し遂げるで“あろう”彼女を賞賛し、尊敬していたわけです。「彼女は型破りだからきっとやってくれる」、皆がそう考えていた。しかし、成績不良に端を発する退部問題の発生により、田中あすかも人の子であり、成績を保ちながら吹奏楽に打ち込むという離れ業には限界があることが明らかになった。この事実は一方で、彼女の肩の荷を降ろすことになります。今までその行動を細部に至るまで支配しようとする母親と、自らに対し「どんな局面も飄々と切り抜ける超人」という評価を持つ部員たちとの板ばさみにあった彼女は、ひとまず後者の期待を裏切る形で抑圧から解放されたわけです。

 そこで、「スニーカー」の登場です。スニーカーは母と部員からの板ばさみ状態を脱し一応は軽くなった彼女の心情を表していると僕は考えています。ローファーというのは伸縮性や柔軟性はなく形が決まっている。つまり、型です。9話後半であすかが自らを抑圧する母の存在について話す時玄関に置いてある彼女のローファーがカメラに映されることからも彼女の中で(無意識にしろ意識的にしろ)ローファーと抑圧が結びついていることが伺えます。対してスニーカーは靴紐で固定するため柔軟性もあり自分の好きなきつさで履くことが出来ます。

束縛に疲れたあすかはきっと、靴紐をゆるくして履いていたんじゃないでしょうか。だから、ほどけた。それにたまたま気づいたのが、香織だった。

 では、なぜ香織なのか。あすかとの付き合いの長い三年生は彼女の本音に気づくことなく、むしろ共に過ごす時間を重ねるたびに彼女を信頼し、頼るようになります。その重圧に耐え切れずあすかが初めて弱みを見せたとき、小笠原晴香は自分たちが如何に彼女に頼りきっていたかに気づき、あすかに代わって部をまとめようと奮闘します。その結果が第7話のソロ演奏なわけですが、一方で中世古香織田中あすかが“人間”であるという事実をなかなか認めようとしません。それを認めることはきっと、いままで田中あすかを異次元に置くことで抑えてきた気持ちに再び触れることを意味します。初め高坂麗奈という才能と真っ向から対峙することを避けていた香織は、ここでも逃げるほうを選択した。部のマドンナなどともてはやされ、一挙手一投足に注目をされる彼女ももしかしたら、大きな重圧を感じていたのかも知れません。

 あすかと香織、共に人々からの期待という大きな重圧を肩に背負ってきた二人の登場する第9話の靴紐のシーンは、短いながらに響け!ユーフォニアムという作品の途方もない奥深さ、精緻さを感じさせてくれます。当然他にも注目に値するシーンはたくさんあるのでまた何か書きたいと思っているのですが、とりあえず今回はここまで。

四季について、あるいは声優について


  四月下旬から五月上旬にかけてが藤の季節である。桜は四月の中頃には散ってしまうから、丁度桜と入れ違いに藤の見頃が訪れることになる。桜の次に藤、私としてはなんだか出来過ぎた冗談のようにも感じられるが、さておきこの私が花の盛りなんて風雅なものを気にするようになったのはつい最近のことだ。万物流転。万物の霊長とはいえヒトもまた万物、小さなきっかけで変わる頼りなき存在らしい。
 からりと晴れた空、道には野良猫が二匹。隣家の庭を眺めながら私は、声優について考えていた。

 ──声優に対して恋心を抱く青年は狂人なのだろうか。いや、青年の恋はいつだって狂気に満ち満ちているものだろう。冷静な頭で恋をする者がいれば、それこそ狂気の沙汰である。しかし一方で、声優に対する恋というものを他の恋と区別して考える必要があることもまた認めなければならぬ。それはひとえに、声優と青年との"関係"の特殊性に起因する。
  今、敢えて"関係"という言葉を使ったが、これは即座に"無関係"という正反対の言葉で置き換えられよう。声優と青年との特殊な"無関係"──ああ、柿の若葉は青青としてさらに濃く、つややかなる表面はよく晴れた五月の空を映さんばかり。聞けば、今年は梅雨入りが遅いらしい。長引く春のもどかしさと言ったら!

第七新東京区の空

  夜空に瞬く星の正体が何億光年もの距離を隔てて光る恒星であることは我々の広く知るところでありますが、この事実は太古の昔から人類が抱く星空のイメージを何ら損ねることはありませんでした。翼を持たない我々の祖先にとっても、様々な科学の翼を手に入れた現代人にとっても星空は、手が届かないからこそ美しい。これはきっと、2032年においても同じでしょう。

  7thシスターズはファンにとって星のような存在であったに違いありません。卓越したカリスマ性や圧巻のパフォーマンスは彼女たちをはるか天上の存在たらしめるのに十分だった。きらきら輝く星たちは、手が届かないとわかっていてもやはり綺麗です。いや、手が届かないとわかっているからこそ、はるか遠くにあるからこそ、自分の抱えるちっぽけな悩みなんて忘れて見入ることが出来るのでしょう。人は星空を見る時、自分を忘れている。

 

  七咲ニコルは「すごいね」と言われるのが嫌だった。みんなと一緒に歌いたいのに、みんなと一緒に踊りたいのに、「わたしと違って歌がうまいね」「すごいダンス、わたしにはできないなぁ」。誰も、星に手を伸ばそうとしない。輝く星を見るだけで輝こうとしない。だから“すべてを壊した”のかもしれません。彼女は、星空の下で夢を見ていたファンを太陽が照らす現実──青空の下に引き戻した。

  九条ウメという少女がそうであったように、人々は戸惑い、悲観し、挫折しながらも少しずつ歩みを始めます。夢から覚めた我々は一歩一歩進むしかない。苦しい時もあるでしょう。嬉しい時もあるでしょう。そんなとき、ふと見上ればそこにはいつも青空があります。青空は額に汗して歩く人の手を取って導くことはできません。しかし、いつもそこにある青空が誰かの足取りを少しだけ軽くする。人は青空を見る時、人生を、行く先を、自分を見ている。そんな青空こそ、伝説のアイドルが目指し、終ぞ叶わず、次の世代に託したアイドルの在り方だったのでしょうか。

  777☆SISTERSの代表曲である「僕らは青空になる」には象徴的な歌詞が何度も登場します。「その勇気は“奇跡じゃない”」「この夢は“まぼろしじゃない”」。この歌を歌うのは他でもない、夢から覚めた第七新東京区で結成されたアイドルたちです。

 

  先日、アプリの新バージョンがリリースされました。来月には幕張メッセで二日間にわたる3rdライブが開催されます。勢いを増す彼女たちが次はどんな景色を見せてくれるのか楽しみにしつつ、明日も生きねばなりません。時々足を止めて、空を仰ぎながら。

三次元化する二次元アイドル

 空想の次元(=二次元)に住む少女たちは、常に現実の次元(=三次元)からの介入に対して無力です。仮に僕が○○ちゃんは俺の嫁!と宣言してしまえば、彼女と僕との空想世界において彼女は僕の嫁になってしまいます。二次元の少女に拒否権はありません。しかし、元をたどれば二次元コンテンツというのはそういう目的のために設計されたものであり、そのような“消費”行為は正当なものでありました。こと一人称視点で美少女たちと人間関係を形成していくいわゆる恋愛アドベンチャーゲームの類はその最たる例で、“介入”そのものが主軸となってゲームが展開されます。我々は超越的視点から、選択肢によるルート分岐により発生した平行する複数の可能世界を一度に俯瞰することが出来るのです。

 

 

 二次元アイドルゲームもその例外ではありません。我々はプロデューサー、あるいは支配人という一人称視点に立ち少女たちを育成します。この際我々と少女たちの間には一対一・唯一無二の関係性が形成されますが、当然ゲームのユーザーは私一人ではないため、ユーザーの数だけ一対一の関係性が存在します。これは平行世界の存在を示唆します。つまり、私がプロデュースする少女Aと別の誰かがプロデュースする少女Aは、同じ名前・容姿でありながら平行する別世界に住む全く別の人間であるわけです。いや、“あった”と言ったほうが正確かもしれません。

 現在、二次元アイドルコンテンツには大きな変化が訪れようとしています。それは、“二次元アイドルの三次元化”です。現在、二次元アイドルは、超越的視点からの介入に対して急速に“閉じ”つつあります。

 二次元アイドルコンテンツの金字塔たるアイドルマスターシリーズは、当初はプロデューサー、つまりプレイヤーである我々の選択によりそのエンディングが大きく変化する仕様であったと聞きます。しかし現在広くプレイされているアイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ、いわゆるデレステにおいて選択肢は形骸化し、どんな選択肢を選ぶかがストーリー展開に影響を及ぼすことはなくなっています。こうなれば最早プロデューサーは我々ではない誰か別の人間であると言えましょう。ストーリーは我々からの介入を必要とせず、ゲームの中のプロデューサーとアイドル、あるいはアイドル同士の相互関係のみで自立的に進行するようになったのです。

 この変化の原因に関しては、ゲームの媒体がソーシャルゲームに移ったことに拠るところが大きいと僕は考えています。ソーシャルゲーム運営の極意は“縦に長い”運営を行うことで長期間にわたり(少し言葉は悪いですが)ユーザーから金を搾り取ることでありますから、ルート分岐のような横に広いストーリー構成をするよりも短期完結型のストーリーを長期にわたって量産するほうが適していたのでしょう。

原因はともかく、この戦略がもたらした帰結の中には非常に興味深いものがいくつもあります。今回はその中から僕が個人的に特にホットな話題だと感じた二次創作の問題について述べようと思います。

 そもそも二次創作というのは、超越的視点からの介入の最たる例です。絵やSSを書く創造的な行為はもちろん、例えば先ほど例に出した「○○ちゃんは俺の嫁!」という発言も広義には二次創作といえるでしょう。つまり二次創作は、各人が二次元コンテンツを消費する際に不可避的に付きまとうものであります。以前、“俺嫁厨”という人種が幅を利かせていた頃、人々は二次創作行為に対して非常に寛容でした。誰かが二次創作を行い、それが自分の嗜好に合わないものであっても「お前の中ではそうなんだな、でも俺の中では違うぜ」と軽く受け流すことができたわけです。しかし現在、二次元アイドル界隈においては二次創作活動における解釈論争が後を絶ちません。なぜ、人々は変わってしまったのか。これも、二次元アイドルの三次元化を用いて説明することが出来ます。

 二次元アイドルの三次元化は“平行世界の統一”という表現で一般化することが出来ます。先述の通り、当初二次元アイドル、ひいては彼女たちの住む空想世界はユーザーの数と同じだけ存在するものでした。そして、この点において非常に“二次元的”であったわけです。箱の中にコピー用紙がたくさん入っている様子をイメージして頂ければわかりやすいかもしれません。箱が我々の住む現実世界、コピー用紙が少女たちの住む空想世界です。コピー用紙には同じ少女の線画が描かれていますが、色はまだ塗られていません。色を塗るのは私たちであり、その塗り方は自由です。隣の人が紙を真っ黒に塗っていても我々は自分の紙が無事であれば目くじらを立てることはありません。これが従来のコンテンツと二次創作の関係です。では、介入に対して閉じつつある現在のコンテンツはどうでしょう。現在のコンテンツでは、ユーザーの数に関わらず全員で一つの世界を見ることが可能になっています。(ここで注意されたいのは「全員が一つの世界を見ている」ではない、ということです。)介入に対して閉じ、自立的に進行するストーリーというのはいわば、自動で色塗りが為されるコピー用紙です。我々は手を動かすことなく、空想世界の少女に色が付いていくのを眺めることができます。これなら、一人一枚ずつ紙を持たなくとも箱の中に一枚だけ紙があれば十分ですね。これが平行世界の統一です。二次元少女は、超越的視点からの介入が無いという点で現実世界の少女と同じ性質を獲得し、我々の目の前に立ち上がってきます。これを“三次元化”と表現したわけです。

 さて、では全員が一つの世界を「見ることが可能」であることと「見ている」ことの違いは何でしょうか。実はこれこそが解釈論争の根本に眠る問題であるのです。

 目の前に“立ち上がって”きた二次元アイドルに対して、われわれができることは二つあります。一つはその“三次元”的性格を尊重し、介入を諦めること。もう一つは無理やり介入を行うことで彼女たちを再び“二次元”的性格の中に押し戻すことです。そしてここからが非常に大切なことなのですが、この二つの対処に優劣はありません。優劣はありませんが、一方で構造上後者は前者に対して常に支配的です。つまり一人でも介入を行えば、途端に世界は分裂してしまう。

 現在多くの界隈で共有される俺嫁厨排除の意識はこのような経緯で発生しました。ある種の人々が俺嫁厨を見ていて覚える嫌悪感はこの不可避的な世界の分裂によるものなのです。もっと言うと、ある種の人々は世界の分裂に慣れておらず、そのため他者の介入が“自分の世界の中で”行われているかのように感じているように見受けられます。みんなで見ていた一枚の絵を他人に塗りつぶされたように感じて憤慨しているのです。

 ここからは、僕個人の意見を述べたいと思います。先述の通り、解釈方法の間に優劣は存在しないのでこれから述べることは「これが正しい」という主張ではないことをお忘れなく。

 さて、まず僕は二次元アイドルの三次元化を非常に好意的に捉えています。というのも、元を辿れば現実世界に住む恋愛弱者のパンパンに膨らんだリビドーの発散先として発展してきた空想世界の住人である少女たちが、その存在の理由であった現実からの介入を振り切って自らの足で立ち上がったという事実自体(仮にそれがソーシャルゲーム界で勝ち抜く先述であったとしても)非常に美しいことだと思うのです。そして、自分と似た信念を持つ仲間との交流も非常に楽しいです。我々は同一の世界を見ているからこそ、“同じ少女”を見ることが出来、“同じ感動”を共有することが出来ます。また、僕はオタクですが、一方で二次元アイドルを見ていて覚える感動は実に非オタク的であると感じています。なぜなら、彼女たちを見て覚える感動はその自立性、完備性に対して覚える感動に他ならず、これは従来のオタク的感動の特質であった「現実世界へのコンプレックス」を完全に脱却したものであるからです。二次元アイドルを見て涙を流すオタクは、実にオタクでありながら一方で全くオタクでない。これは誇ってよいことではないでしょうか。

 これを読んでいただいた二次元アイドルオタクの皆さんも、過去、あるいは未来においてアイドルとの付き合い方に悩むことがあるでしょう。そんな時にこの記事が少しでも役に立ち、あなたのオタクライフをよりよい物にする一助となれば幸いです。

 

おまけ1 二次元化する三次元アイドル

ここからはおまけです。僕は最近よく(声優)アイドル現場に行き、またそのオタクの人々と交流するのですが、そこで非常に感じるのが「実在アイドルが二次元化している」ということです。お渡し会や握手会等の接近イベントが増え、あるいはアイドルのTwitterやブログでその“私”の部分に簡単にアクセスできるようになった今、最早実在アイドルはいつでも介入可能な存在となりつつあります。ここまではオタクにも救いがあってよかったね、という話で終わるのですが、悲しいことにこの接近の容易化を超越的視点からの介入可能性に履き違えてまるでアニメキャラに対してするような接し方をする輩が現れてしまうのです。

実際問題、AKBの恋愛禁止を初めとして最近はこの「履き違え」を誘発することでオタクのハートを掴もうという下心の透けて見える運営方法が増えているように思いますが、だからと言って本当に二次元キャラにするような接し方をしていいわけがありません。こんなことわざわざ言うまでもないのですが、声優もアイドルも実在の人間です。ひどいことを言われれば傷つきます。知ってほしくないプライベートもあります。当然そんな悪いオタクは全オタクの10%にも満たないし彼らがこの怪文書を読んでいるとも思えないんですが、頼むからそこらへんのことをわかった上でオタクをやって欲しいです。