kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

響け!ユーフォニアム考察〜あの日、黄前久美子は高坂麗奈の中に何を見たのか〜

 

しばらくぶりです。kramijaです。今回は予告どおり2015年春クールに放映されたアニメ、「響け!ユーフォニアム」の考察を行いたいと思います。読者はこのアニメを視聴済みであることを前提に進めるのであしからず。(なんかこのへん「響けユーフォニアムとは~」みたいな感じでwikipedia引用したりして二期の話とか劇場版の話とか原作の話とかもうちょっとちゃんとやったほうがいいのかも知れないんですけどめんどうくさいのでやりません。許してね。)

 では前置きをすっ飛ばしてさっそく本題に入りたいのですが、まず先にこの考察の目的と言うか概要を述べておきます。この考察は「黄前久美子にとっての高坂麗奈(あるいは高坂麗奈にとっての黄前久美子)はいったいどんな存在なのか、そして二人が出会ったことで久美子の人格はどのような変化を起こすのか」を僕が定めた作中での重要イベント1~4に着目することで読み解くことを目的としています。形式としては各章でまずイベントの説明を行い、その後そのイベントによって起きたと考えられる久美子や麗奈の行動の変化が見られるシーンを箇条書きで解説していきます。では、始めましょう。

0.高坂麗奈と出会う前の黄前久美子という人物について

 響け!ユーフォニアムのアニメ第一期は黄前久美子が高校一年の春に北宇治高校に入学してから夏のコンクールで金賞を取るまでの軌跡を時系列順に追う構成になっていますが、その間たびたび久美子の過去の回想シーンが登場し高坂麗奈と出会う前の久美子の人格を推定する手がかりとなります。この考察の主眼である「高坂麗奈という人物との邂逅が黄前久美子にもたらした人格の革命的な変化」を論じるに当たってその変化以前の黄前久美子像を固めておくのは非常に大切なことだと言えるので、第0章では作中の回想シーンに何度も登場することから久美子の人格形成にとって重要な意味を持っていると考えられる二つの出来事をもとに初期の久美子についての考察を慎重かつ丁寧に議論を進めます。(久美子と麗奈は同じ中学校に通っていたので二人の出会いは厳密には中学入学時にまでさかのぼるのですが、今回は物語的な面から見た二人の接触、すなわち黄前久美子の「カメラ」に高坂麗奈が初めて映った中学三年生のときのコンクール(イベント1)を二人の出会いの定義とします。)

 その重要な二つの出来事とは、①久美子の目標であった姉の麻美子が大学受験を理由に吹奏楽をやめてしまった②中学一年の夏、先輩から「A(おそらく実力順にチーム分けが為されていてAは一番上のチームであると考えられる)になったからってバカにしているのか」と強い口調で責められた ことです。

 ①、②の出来事を通して久美子は「ユーフォニアムを上手く吹けるようになりたい」「吹奏楽を続けたい」という意志を貫けば必ず受験や先輩との軋轢という壁が待ち受けていることを思い知りました。そして、もともと持ち合わせた意志の弱さ(これは例えば楽器を始めるときにほかに志願者がいなかったことからユーフォニアムを選んだことなどからわかるように久美子の特徴的な性格です)もあいまってそれらの壁に対して自分なりの答えを見つけることができず「一生懸命続けてもどうせやめるときが来るしいろいろな不都合が生じるのだから程々でいい」という考えを持つようになったと考えられます。フロイト精神分析学用語を借りれば合理化(すっぱい葡萄の話のアレです)をしたとも言えますね。そうして何をするにもどこか冷めた態度で臨むやれやれ系?主人公黄前久美子が完成しました。しかし、ここで注意されたいのはこれらの性格は行く末に待ち受ける壁を越えるほどの意志力がなかったがためにでっち上げたその場しのぎのものであり、久美子の本心とはまったく異なります。これについてはすぐ後の第一章で詳しく説明します。

 

1.中学三年時のコンクール(イベント1)

 0章で述べたように努めて「一生懸命になること」「夢中になること」を避けるように生きてきた黄前久美子ですが、中学三年の時、ある衝撃的なシーンに遭遇します。それは中学三年のときの吹奏楽コンクールでの出来事。以下作中でのやり取りをそのまま抜き出します。

「高坂さん、泣くほど嬉しかったんだ...良かったね、金で」「くやしい。くやしくて死にそう!何でみんなダメ金なんかで喜べるの!私ら全国目指してたんじゃないの!?」

「え...本気で全国いけると思ってたの?」「あんたはくやしくないわけ?私はくやしい。めちゃくちゃくやしい!」

 このやり取りこそが、黄前久美子高坂麗奈両名にとって運命的なものとなりました。以下、その理由を説明します。まず、久美子。本気で全国を目指していた高坂麗奈に呆れてつい口をついて出てしまったはずの言葉が、あろう事か「自分自身に」突き刺さってしまいます。そう、あの日、あの時、高坂麗奈と同様に黄前久美子もまた、全国にいけなかったことが悔しかった。徹底的な合理化により隠し続けていた「内なる黄前久美子」は、実は全国に行きたかった。そうです、高坂麗奈黄前久美子の隠された本心を体現した存在だったのです。そして次に、高坂麗奈。作中での振舞いを分析すると、高坂麗奈黄前久美子と正反対の人格形成をしてきたと推察できます。つまり、高坂麗奈は高くそびえる壁を見て「越えられるはずがない」と冷静な判断を下す自分の声に耳をふさいで壁に向かって突進するタイプの人間なんです。今回のコンクールもそうだったと思います。彼女だって、心のどこかでは全国にいけないことをわかっていた。そんな自分から目をそらしていた。そこを黄前久美子に指摘された。熱くなることで耳をふさいできた「内なる高坂麗奈」の声が、あろうことか黄前久美子の口から飛び出した。正反対の人格形成をしてきた二人が、互いの中に内なる自分の影を見る。これは、実に運命的な出来事です。イベント1には実は、このような意味があったと僕は考えています。これは、かなり確信を持って言えます。

・一話、久美子が進学先に北宇治を選んだ理由

 高坂麗奈の中に本当の自分を感じた黄前久美子は、大きな恐怖を感じたはずです。高坂麗奈が感情をむき出しにして泣く姿は、傷つかないために合理化までして守ってきた本当の自分が傷つく姿に他ならないのですから。だから黄前久美子高坂麗奈を避けるようになった。それゆえ、進学する高校も地元から離れた北宇治を選んだのだと思います。久美子本人は北宇治進学の理由を「いろんなことを一度リセットしたかったから」と述べていますが、これは合理化に過ぎないと思います。合理化というか、無自覚ですね。イベント1で非常に強い衝撃を受けたものの、まだ本当の自分=高坂麗奈という等式をはっきりとは自覚していないんです。だからこそ、理由のわからないもやもやに悩まされる。なぜだかわからないけど、高坂麗奈の近くにいると落ち着かない。だから麗奈とは違う学校でリセットしようという気持ちになったんです。

・一話、久美子が吹部の演奏を初めて聞くシーン

 もちろん高坂麗奈が進学するであろう全国大会出場常連校を避けて北宇治に進学したのだからある程度は覚悟していたんでしょうが、それでも久美子は北宇治高校吹奏楽部の演奏の下手さにショックを受けます。こういうシーンからも、本当は全国に行きたい黄前久美子の本心が伺えます。

・一話、吹奏楽部の演奏を聞き教室に戻った久美子の独白(本当は加藤葉月に聞かれていたので独白ではないのかもしれないですが)

 「下手すぎる!」と憤ったあとで「でもまあ、全国目指す感じじゃないんだろうなあ」と心の中でつぶやき、刹那、イベント1がフラッシュバックする。これ、象徴的なシーンだと思います。久美子は本当は全国に行きたいんです。だけど本心が出てくる代わりに高坂麗奈のあの泣き顔が頭に浮かぶ。涙を流す麗奈を思い出すことで「ほら、全国を目指すのはあんなに大変なんだぞ、痛いんだぞ、苦しいんだぞ」と自らに言い聞かせる。そうして封じ込める。お得意の合理化でやりすごしているんです。しかもたぶんこの時点では、無自覚に。このように挙げ始めたらキリがないんですが、作中には久美子の隠された本心が見て取れるシーンが多数登場します。

 そんなこんなで演奏技術が低い北宇治高校吹奏楽部に幻滅しながらも新しくできた友人の葉月や緑輝に誘われて吹奏楽部の見学に行く久美子ですが、そこでなんと高坂麗奈と再会を果たしてしまう。これがイベント2です。

 

2.高坂麗奈との再会(イベント2)

 進学先にわざわざ遠い高校を選んでまで避けてきた高坂麗奈に再び出会ってしまった黄前久美子。そのショックは半端なものではありません。久美子の中にまたあの「もやもや」が巻き起こります。悩みに悩み一旦は吹奏楽をやめる決意までして帰宅した久美子ですが、中学最後のコンクールで吹いた地獄のオルフェの楽譜を見ながら当時の自分を思い出します。そして翌朝。登校した久美子の目に飛び込んできたのは、新品のマウスピース相手に悪戦苦闘する葉月の姿。葉月に音を出すコツを教える久美子の頭には、吹奏楽を始めた頃の自分──吹奏楽に夢中だった頃の自分の姿が浮かびます。この吹奏楽を始めたころの久美子は、壁の存在を知る前の久美子、すなわち内なる久美子の姿なんですよね。このシーンで過去の自分を思い出したことはすごく意味があると思います。つまり麗奈という「押し殺してきた自分を体現させた人物」と向き合うことは、間接的とは言え「押し殺してきた自分」そのものに向き合うことにほかなりません。久美子の中でイベント1の麗奈(=挫折する内なる自分)と過去の自分(=希望に満ちた内なる自分)がせめぎ合い、結果として後者が勝つんです。そういう内なる葛藤の末、久美子は吹部入部を決意したのではないでしょうか。

・三話、葉月が「やる気のない人たちにイライラしながら頑張るって、私は、なんか...」と愚痴をこぼしそれを聞いた緑輝が「久美子ちゃんはどう思いますか?」と尋ねるシーン。

 もちろん、内なる自分を体現した存在である高坂麗奈と向き合うこと=内なる自分を守る鎧を取り払うことではありません。ですから依然として久美子は今までのままです。三話で姉から「またユーフォじゃん」と言われて何も言い返せない様子などからもまだまだ久美子の人格に変化が起きていないことがわかりますね。しかし、です。このシーン、今までの久美子なら間違いなく言葉を濁します。実際、そうしようと思っていたはずです。ところが久美子が口を開きかけた瞬間、グラウンドに麗奈が吹く「新世界より」が響き渡る。作中でも説明がありましたがこの新世界よりドボルザークが何もないアメリカ(=新世界)で作った曲なんです。この「新世界」、余計な人間関係や世間体を一切視界の中に映さずただひたすらにトランペットだけと向き合わんとする麗奈の世界(すなわち内なる久美子が望む世界)を連想させませんか?つまり、心のうちでは「余計なことは考えず練習したい」と考えてはいるが口に出せない久美子の言葉を麗奈がトランペットを吹くことで代弁したのです。これは、久美子が麗奈と向き合ったことにより起きはじめた変化(この時点では内的な変化ではなく外的な変化ではあるのですが)を最初に見て取れる大事なシーンだと思います。

・五話、麗奈が久美子に滝先生をどう思うか尋ねるシーン

 まず話は四話で久美子と秀一が麗奈にキレられるシーンに戻ります。麗奈は滝先生のことが好きなので、他人が彼の文句を言ってるのを聞くのはもちろん腹立たしいんだと思うんですが、たぶんあの四話のシーンで怒ったのは久美子が売り言葉に買い言葉とは言え滝先生を否定するような言葉を言わされそうになって焦ったからだと思います。だからこそ、五話で改めて久美子に滝先生をどう思うのか聞くんですよね。一度夢中になると周りが見えなくなる自分を自覚した上で、内なる自分を体現した存在である久美子の冷静な意見を知りたかったからこそあそこで取り乱したんではないでしょうか。

・五話、中学のころの友人に会いに行こうと誘われた久美子がそれを断るシーン

 非常に物語的なシーンです。新しく最初からスタートしたいとの思いを抱えて北宇治に進学した久美子は麗奈と再会し少しずつ変わり始めた自分に気がつきます。もちろんそれは麗奈一人の影響ではなく滝先生が作り出した部全体の雰囲気の変化によるところも大きいのですが。

・六話、三人の合奏

 六話は葉月回?でした。上手く吹けずに悩む葉月をどうやったら元気付けられるか悩んだ久美子と緑輝は合奏をすることで葉月に吹奏楽の楽しさを教えます。そして同時に久美子自身も吹奏楽の楽しさを再発見します。

・七話、葵の退部

 五話のサンフェス、六話の合奏でかなり本来の自分を取り戻した久美子ですが、幼馴染である葵の退部騒動&オーディション開催決定を機にまた悩みモードに入ります。高校入学前に一度立ちはだかった二つの壁を高校入学後の高坂麗奈との再会に端を発した“吹奏楽に夢中になることの楽しさの再発見”により忘れかけていたときに再び目の前に壁が立ちはだかる。実に物語的な展開です。壁を“忘れる”のではいつかまた壁に出会ってしまう。だから“越える”必要がある。でもどうすればいいのか。万事休すかと思われた矢先、イベント3が起こります。

 

3.大吉山展望台での愛の告白(イベント3)

 さて、前章の最後で説明したとおり、いよいよ目の前の問題から逃げられなくなってきた久美子。そんな中偶然久美子は麗奈をあがた祭りに誘うことになり、そしてなぜか当日二人は山に登ります。あのシーンはビジュアル的な美しさだけでなく物語的にも非常に重要な意味を持っています。以下、各ポイントに着目しながら慎重にあの日の出来事を考察していきます。

イ)なぜ山なのか

 まずはこれ。なぜ麗奈は祭りではなく山を選択したんでしょうか。本人は作中で「他人と違うことがしたかったの」と言っていて、実際その通りだと思うんですが、じゃあなぜ他人と違うことがしたかったのかというと、おそらく久美子にもほかの人と違うことをさせることで「麗奈の側」に引き込みたかったからではないかと僕は考えています。八話までは常に麗奈とその他の人という構図が成り立っているんですよね。もちろんあすかのように物語を傍観する孤高の存在もいるんですが、麗奈はそれともまた違うんです。彼女の目指すところはほかの部員たちと同じで、だけどともに歩む存在がいない。孤高というよりは単に孤独なんです。しかも、夢中になると突っ走ってしまう性格がある。だからこそオーディションを前に「冷静な自分」の代弁者である黄前久美子を自分のカメラの中に入れたかった。それゆえ誰もいない山を舞台に選んだのではないでしょうか。

ロ)なぜ麗奈はとびきりのおしゃれをしたのか

 まあこれはもちろん他人と違うことをしたかったからとも取れるんですが、今回はもう少し奥まで突っ込みます。実は僕、今年の二月に大吉山展望台に行ってきたんですよ。で、そこで着想を得たんですがあのシーン全体的に視聴者に処女喪失を連想させるように作られているんですよね。いやもちろんあの時高坂麗奈が処女喪失を意識していたとかそういう話では全然なくてこれはただのメタファーに過ぎないんですけど、じゃあ何のメタファーなのかは少し置いといてどこら辺が処女喪失を連想させるのかという話をします。まず“純潔”の象徴である真っ白なワンピース。そして“痛いけど”“嫌じゃない”という台詞。山を登るという運動により“上がる息”。さらには“靴を脱ぐ”という脱衣の暗喩。これはたまたまそうなったとか僕が普段そういうことばかり考えてるからそう見えたとかそういう話ではありません。明らかに狙ってやっていると思います。では、なぜでしょう。なぜ制作側はあそこで処女喪失を連想させたのでしょう。それは、あの日の大吉山で“麗奈が生まれて初めて他人を自分の中に受け入れた”ことを暗に示すためではないでしょうか。(つまり二重のメタファーです。)いままで興味がない人間とは一切関わってこなかった麗奈は、トランペットだけを見て生きてきました。もちろん、滝先生に恋心を持っているので滝先生のことは頭の中にあると思うのですが、これは思春期女子にありがちな「実在ではなく性質に恋をしている」というやつだと思います。もっと言えば「滝先生というすごい人に恋する自分」を演出しているだけというか。(これは正直高坂麗奈本人に聞かない限りはわからないのですが)そんな中黄前久美子に出会い、彼女の持つ冷静さに目を留めた。この先もっと特別になるためには、久美子が必要だと考えた。そこで、久美子を自分の世界の中に引き込んだんです。

ハ)なぜ楽器を持っていったのか

 新世界よりのときもそうでしたが、麗奈は自分の気持ちを表現するのに言葉ではなく楽器を使うんですよね。で、今回も例に漏れず久美子を受け入れたいという強い思いを曲に乗せます。曲名は「愛を見つけた場所」。互いの中に互いを感じるという強烈なシンパシー、あるいは信頼、あるいは友情を“愛”と表現するための選曲だったのではないでしょうか。

   あの日大吉山で「特別になりたい」という麗奈の決意を聞いた久美子は、麗奈を応援したいと感じます。自分だけに話してくれたのが嬉しかったと言うのももちろんあると思いますが、本質は別のところ、すなわち特別になりたい麗奈を応援することによる間接的な自己肯定にある。いままで押し殺してきた自分は実は正しかったかも知れない。しかしまだわからない。だからとりあえず麗奈を応援するんです。久美子は、麗奈の背中を押すことでその背中越しにうっすらと自分たちの前に立ちはだかる壁の姿を見ている。

 こうして、久美子は少しずつ壁に挑み始めます。オーディションに受かってコンクールに出たい。しかしそのためには先輩たちと競い合わなければならない。目をそらせないからこそ怖いと感じる。以前の久美子にはありえない感覚だと思います。そんな時、やはり勇気付けてくれるのは高坂麗奈です。「私も頑張るから頑張って」という台詞は、「久美子の一歩先を行く麗奈」という構図を良くあらわしています。

・十一話、久美子が優子に「この音どう思う?」と尋ねられるシーン

 オーディションが終わったのもつかの間、滝先生が麗奈を贔屓したのではないかといううわさが立ちます。以前の久美子であれば、間違いなく関与しなかったでしょう。しかし、イベント3で特別になりたいという麗奈の決意を聞いた久美子は、麗奈の側に立ちほかの部員と戦います。そんな中で印象的なのがこのシーン。「ソロにふさわしいと思います!」と答える久美子は、かつて自分の前に立ちはだかった「先輩」という壁を麗奈が越えられるようにその背中を押そうとしているんです。

そして物語はクライマックス、再オーディション(イベント4)へと向かいます。

 

4.再オーディション(イベント4)

 高坂麗奈が先輩である中世古香織と真っ向から対決する。それは久美子が中一の夏以降ずっと避けてきた構図そのものです。だからこそ、オーディション前のやり取りで久美子はあそこまで熱くなったんだと思います。かつて自分が越えられなかった壁を麗奈には越えてほしい。そういう強い思いがあったのです。自分の前を行く麗奈が壁を越えれば自分自身も勇気付けられますからね。そして再オーディションを経て、「麗奈が特別になるのが見たい」という思いは「特別になりたい」という直接的な意志に変わります。自分が背中を押していた麗奈は見事壁を越えた。壁の“こちら側”に一人残された久美子は、今度こそ自分の力で壁を越えようとします。

 ・十二話、保健室

  再オーディションを見て、上手くなりたいという熱病に冒された久美子。合理化の鎧を脱ぎ捨てた彼女は、どこまでも自分の気持ちにまっすぐです。「そもそも今までの自分はどんなだったのか」という台詞に四つのイベントで彼女の人格に起きた大きな変化が伺えます。

 ・十二話、「上手くなりたい!」のシーン

  泣けます。めちゃくちゃ泣けます。ついに久美子はイベント1の時の麗奈に追いつく。「悔しくて死にそう」という思いをめいいっぱい表に出す。最高のシーンです。

 ・十二話、自室で姉と言い合うシーン

  泣けます。死ぬほど泣けます。ついに自らの力で壁をうち破った久美子。「音大行くつもりないのに続けて意味あるの?」という姉の問いに(姉の問いであることに意味があるんです!かつて受験を理由に吹奏楽をやめた姉!その姿を見て本当の自分を押し殺すようになった久美子!しかし!もう久美子は昔の久美子ではない!姉のほうをしっかり見て!久美子は!)「意味あるよ、私、ユーフォが好きだもん。私、ユーフォが好きだもん。」と返す。「好き」、それだけでいいんです。好きだからユーフォを吹く。それ以外は考えなくていい。それが、麗奈と出会い久美子が見つけた「答え」です。

 ・十二話、ラストシーン

  「努力したものに神様が微笑むなんて嘘だ。だけど、運命の神様がこちらを向いてウインクをし...」という久美子の台詞。久美子らしいですね。合理化の鎧を脱ぎ捨て目の前の壁を打ち破った久美子。眼前には果てしない未来が広がっています。これぞ、青春です。  

 ひたすら何かに夢中になった経験、これは、間違いなく人生の財産になります。アニメ響け!ユーフォニアムは中高でまじめに部活に打ち込むことなくただただ時間を浪費した僕にとても大切なことを教えてくれました。ありがとうスタッフ。ありがとう声優の皆さん。ありがとう高坂麗奈。そして、ありがとう黄前久美子

 

5.おわりに

 僕の考察はここで終わります。(十三話は改めて書く必要もないほど自明にすばらしいので。)アニメの考察って生まれて初めて書いたのですが、すごく大変でした。日ごろ考えていることを文章化するのって意外と骨が折れますね。でも、楽しかったです。すごくいい経験になりました。と同時にまだまだ鍛錬が必要だなあとも感じました。修行を積んで機会があればまた何か書きたいです。その時はまたよろしくお願いします。それでは。

物語の再定義とそこから得られるオタクの分類

 

今回ついにブログを始めることにしたのですが、最近長い文章を全然書いていなかったのでウォーミングアップをかねて僕が普段考えてること(物語論)をそこはかとなく書きつくっていこうと思います。

 

  1. カメラと物語について

「物語」と一口に言ってもそこには多種多様な認識、解釈があります。それ故、たとえばこの先僕が投稿するであろうアニメの批評や感想において「これは非常に物語的な展開であり云々」のようなフレーズが出てきた際、読者諸君の混乱を招いてしまうことが予想されます。(アニメは物語なんだから物語的なのは当然だろう?みたいな疑問が生じてしまうだろうということです。)そこで、あらかじめ僕が考える「物語」とはどういった概念であるかを説明しておきたいと思います。

 さて、この世に星の数ほど存在する「物語」と銘打たれた文章、漫画、映像等に共通する要素とは何でしょう。僕はズバリ、「世界のある出来事に関連した複数の場面をカメラによって切り取り、それらを意味が通るように張り合わせたものであること」ではないかと考えています。ただし、ここで言う「世界」とはわれわれの住む世界でも良いですし、創作により生み出された架空の世界でも構わないとします。とにかくなんらかしらの世界のいくつかのシーンをカメラによって切り取り、時にはそのまま、時には文章化して張り合わせる。こうして出来上がったものが物語です。カメラは写したいものだけを写すことができますし、逆に言えば写したくないものは徹底的に排除することができますね。つまり、物語において、そこに登場する人、事物、現象は意図的に切り取られたものであり、そのすべてに登場の理由がある。端的にいえば、物語においては原因-結果という因果関係が整然と成り立っています。この、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っている」ことこそが物語の特徴、性質であると言えるのではないでしょうか。と、少なくとも僕は考えています。これらのことを踏まえると、例えば僕が使う「物語的である」というフレーズは、「その場面に登場するキャラクターたちは皆登場するべくして登場したのであり、その役割は彼/彼女にしか担えないものであり、その行為一つ一つに非常に大切な意味がある ああ凄い なんて感動的なんだろう」といった趣旨であると言えます。また逆に、「非物語的である状況」というのは、なんだか原因のはっきりしない理不尽な仕打ちを受けたり誰も幸せにならない出来事が起きたり無駄な努力をしている状況を指します。

2.人生は物語である

  少し話題を変えます。我々は今現在、「人生」というレールの上を歩んでいますね。このレールはもちろん後ろにも前にも、つまり過去にも未来にも存在しますが、今回は過去のレールに着目します。この「過去の人生」、別の言い方をすれば「あなたの記憶の中に存在するあなたがこれまで生きた軌跡」、これも「物語」であると言えます。この地球という″世界″において″あなた″という人物について起きた一連の出来事を″あなた自身の目″というカメラで切り取り″脳″に記録した物語、それこそがあなたのこれまでの人生です。就職して結婚して子供を作って庭付き一戸建てに住むという物語、ミュージシャンになり酒と女とROCKに溺れる物語、…人の数だけ物語があります。ですが、如何に多種多様な人生を歩んでいようと、人は皆「非物語的な」人生を嫌います。努力が実らなくて喜ぶ人はいません。誰も幸せにならないような行為を積極的に行う人はいません。  しかし、避けても避けても人生の非物語化が起きてしまう場合があります。僕はこれを「人生の物語化の失敗」と呼んでいます。人生の物語化の失敗はいつ起きるのでしょうか。それはもちろん人生と言う物語に不可避的に「非物語的な要素」が食い込んできたときです。ですが、この「非物語的な要素」とは何でしょう。先ほどの定義に従えば、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っていない要素」と考えることができますが、これは「その物語が展開されている世界に登場してはならない要素」「カメラで世界を切り取るときに意図的に排除される要素」と言い替えることができます。

 人は生きていく中でいろいろな物語に出会います。そしてそれらの物語の中で気に入ったものを自分の人生の物語の指標にします。たとえば小学生のころ、有名なプロ野球選手Aの自伝小説を読み、彼が子供のころに行っていた練習法を真似てみた経験がある人がいるかもしれません。これはまさに「プロ野球選手Aの人生と言う物語」をそのまま自分の人生の指標とした例です。当然、こんなに単純な例は少ないですが、誰しもがそれまでの人生で出会った物語たちの一部をつなぎ合わせて、あるいは共通する部分を取り出して、自分の人生の物語の指標とします。これを「固有物語」とでも名づけましょう。この固有物語の世界に想定されていない要素が飛び込んできたとき、その人の人生の物語化は失敗します。

  こう書くと物語化の失敗はなんだか絶望的な出来事のように感じられますが、決してそんなことはありません。仮に固有物語に非物語的な要素が舞い込んで物語化の失敗が起きても、その要素が消えてしまえば人生の再物語化は可能です。「嫌な思い出」として忘れ去ってしまったり、「痛い教訓」として無理やりその他の出来事との因果関係に取り込んでしまったりすればよいのです。

 

 

3.二種類のオタクの発生

  ここからは一般論をやめ焦点をオタクという人種に絞ります。オタクという人種を論ずるに当たってまず、オタクを大きく二つに分類します。第一のオタクが「人生の物語化に失敗していないオタク」(以下オタク1)。第二のオタクが「人生の物語化に失敗したオタク」(以下オタク2)です。オタク1とオタク2は通常区別されずに語られることが多いですが、僕は両者の間には絶対的な断絶があると考えます。それどころか、現代社会で生じているオタクたちの醜い争いはどれもこの断絶に起因するとすら考えています。以下では「物語化」の観点から二種類のオタクを慎重に考察し、場合によってはさらに細かな分類を与えていきます。 

 ではまず、オタク1について。先述の通り、オタク1は自身の人生の物語性を保ったままオタクの道に足を踏み入れた人々です。彼らの人生の物語は正常に展開し、その世界は純粋性を保っている。世界が純粋性を保ったままオタク化したということは、オタクコンテンツを「物語的な要素」と捉えて自身の世界に取り込んだと言うことです。すなわち、「自分の世界の中で、自分のカメラを用いて」オタクコンテンツを鑑賞している。一方で、オタク2はどうでしょう。人生の物語化に失敗したオタク2の世界はもはや純粋性を保っていない。目を背けたくなるような景色が広がっている。そこで彼らが目を背けた先がオタクコンテンツなのです。ここで、オタク2をさらに細分化します。ここで着目するのが「非物語化の発端の違い」です。まず第一に、自分以外が発端となり非物語化が起きた場合。つまり、物語化に失敗したものの自分自身の物語性は保っている場合です(これをオタク2aとでも呼びましょう)。こういうケースではオタク2aは自分の人生以外の物語の世界に自分自身を要素として取り込むことで人生の物語性を保とうとします。これは、「その物語の世界の中で、自分のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞しているといえます。まあ早い話、自分が主人公になったつもりであれこれ妄想したりするのがこれに当てはまります。では、非物語化の発端が自分であった場合(オタク2b)はどうでしょう。これが第二のケースなのですが、オタク2bはもはや「自分」という存在を完全に排除した状態で物語を鑑賞します。「出来合いの物語」を自分の人生の物語として代用してしまうのです。つまり、「その物語の世界の中で、その物語のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞するのです。

4.まとめ

  以上が僕が普段考えてることの概要です。僕は先の分類に倣えばオタク2bに該当するのでオタク1やオタク2aのことはイメージで書いていくしかなかったのですが、どうでしょうか。ここはおかしいんじゃないかみたいなところがあったらばんばん指摘してください。適宜訂正を加えますので。

  2017-02-26追記

約一年ぶりにこの記事を見直し、脱字が一箇所あったのと不要と思われる箇所が一箇所あったのを省きました。全体的に表現が稚拙でお恥ずかしい限りなので総書き直しをしたいくらいなのですが、初心を忘れない為にもあえてそのままの形で残すことにします。