kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

お前の百合は何色だ

1 俺は性欲が嫌いだ

    ご無沙汰しております、kramijaです。皆さんは性欲、好きですか?僕は嫌いです。別に性欲が嫌いだからと言って僕に性欲が無いわけではないんですが(と言うか僕はとびきりエッチなオタクです)、とにかく僕は性欲と言うやつが大嫌いです。というのも、性欲って感情としてものすごく強いんですよね。本能そのものなので、ほかの繊細な、非本能的な感情を一瞬で消し炭にしてしまう。本当に反知性的で最悪な感情です。しかし残念ながら、本能に直結した感情だからこそ、あらゆる場面で登場してしまいます。こんなに性欲を憎悪する僕が時に淫獣と化してしまうことからもわかるように(?)、人は性欲の魔の手から逃れられません。これはもうどうしようもないことだと思います。そう、もう僕たちにできることは、性欲に汚染されていない数少ない清澄な感情を大切に大切に尊ぶことだけなのです。

僕はこの清澄な感情に、百合という名前をつけました。

 

2 お前の百合は何色だ

   のっけから異常な論理の飛躍を見せて読者の皆さんを困惑させてしまったことと思います。落ち着いて、順を追って説明しましょう。そもそも、みなさんは百合の定義をご存知ですか?僕は知らないです。というか、一般性をもった百合の定義って存在するのでしょうか。僕は以前twitterで歴史的文脈を乗せた百合の定義のようなもの(厳密には百合を定義しようとした人への批判)やそれに対する批判やそれに対する批判に対する批判(以下略)を見ていて、現代の百合と言う概念に統一的な定義を与えることはほぼ不可能になっているのではないかと感じました。統一的な定義を与えられない以上、それぞれの人間が独自に持つ百合の概念のうち自らが持つそれと一致する部分を見出して盛り上がったり食い違う部分について議論したりして少しずつ思想を摺り合わせて行くほかありません。ですが、世の人々が持つ百合の概念はほとんどが帰納的に獲得されたもので、どこか曖昧です。この人の百合観は僕の百合観に一致しているような気もするし、していないような気もする…ともどかしい思いをしたことも何度もあります。そこで、演繹的に自分の思う百合を定義しようじゃないかと言うことで実験的に「演繹的な百合の定義」を行うべくこの記事を書くことにしました。

このような経緯のもと、まずは最初の要請として「百合とは性欲に汚染されていない清澄な感情である」を打ち立ててみたわけです。実際この時点でかなりのオタクと対立することになってしまうと思います。少女たちが粘膜を接触させるイラストを捕まえて「百合だ…」などと評するオタクの皆さんがとても多いですからね。まあ今回は俺の百合を見てくれという感じでやっていくので他人の百合に文句を言うのはあまり気が進まないんですが、粘膜接触を百合に含めるなら百合と同性愛の区別をどうやってつけるんでしょうか。それとももはや区別はつけないんでしょうか。まあ良いです。今回はぼくが考える百合の話です。僕の百合の話を続けます。

 

3 俺の百合は夏の空に浮かぶ入道雲の色だ

   以下では「性欲に汚染されていない清澄な感情であること」を要請として作り上げられる僕の思う百合の姿について語っていきたいと思います。

まず、性別について。百合っつったら女の子同士だろ!と思うかも知れませんが、これもおそらく帰納的に身につけられた厳密でない百合の概念であると思われるので一度捨てましょう。あくまで要請は「百合とは性欲に汚染されていない清澄な感情である」だけです。とはいえ、この要請から推論される百合についても基本的には「百合は女の子同士」の概念が当てはまります。少し男女差別的な発想になってしまうのですが、一般的に女子より男子のほうが性欲は強いとされていますよね。世の中に男と女を両方経験した人間はいないので真実はわからないのですが、僕自身もまあそうなんじゃないかなと思っています。ですので、「百合は男子と比べて性欲から遠いところにいる女子の間で発現しやすい」と言えることは確かなことでしょう。しかし、(ありえんエッチなオタクであるところの僕には想像もつかないことですが、)世の中には性欲から遠いところにいる男性と言うのも存在しているかもしれません。例えば、ハーレムものアニメの主人公なんて基本的に一切の性欲を見せませんよね。まあハーレムものアニメは往々にして女性陣が性欲にまみれているので間違っても百合とは言えませんが、例えばGJ部のようなケースは微妙なところです。もちろん詳細な考察は必要ですが、もしかするとGJ部員の関係は百合と表現できるかもしれません。話が逸れましたが、僕の百合においては「基本的には百合は女-女で発現するが、場合によっては男-女、時には男-男に発現する可能性もある(この場合は精査が必要)」であることが結論できました。

では次に年齢について。年齢について考えるに当たってまず、要請の解釈を行います。すなわち、「性欲に汚染されていない」とは「性欲を選択肢として持たない」なのか「性欲を知った上でそれを選択しない」なのかあるいはその両方なのかを考える必要があります。最初の解釈を採用した場合、ちょっと変なことになります。というのも性欲を選択肢として持たない世代と言うのは思春期以前または十分年をとった後ということになるので、「小学生って百合なんだよな」「老夫婦って百合なんだよな」みたいなおかしな主張が出現しかねません。別にこのような主張を批判するわけではないですが、今回はなるべくみんなが共有している百合の概念に近づけたいのでこのような解釈は切り捨てて「性欲を知った上でそれを選択しない」を採用したいと思います。ここでこの解釈にさらに踏み込みます。なぜなら、性欲を知った上でそれを「意識的に」選択しない、なのか、あるいは「無意識的に」選択しないなのかでかなり違いが生まれるんですよね。意識的に選択しないと言うのはつまり総合的に価値判断を行った結果「性欲を選択することは不利になる」と考えて選択をしないと言うわけで、ここには何の尊さもありません。「一歩間違えれば性欲という巨大な濁流に飲み込まれてしまう本流脇の小川の清らかな流れに刹那的に興る彩色の生態系」にこそ何にも代えがたい価値があるのであって、「コンクリートで整備された本流の脇に作られた用水路」にはなんの価値も無いのです。(何を言っているんだ。)と言うわけで、僕は「性欲を知った上でそれを無意識的に選択しなかった結果としての清澄な感情」を百合と呼びます。これが実現する年齢ですが、性欲を知っていてなおかつまだそれとの付き合い方を心得ていない年齢と言うことになりますので、思春期に限定されると思います。

追記1:ブログ公開後、多数の方から「自分は性欲を意識的に回避する関係性も百合だと思う」と言う意見をいただきました。そして、これらの意見を頂いて初めて、自分は性欲の意識的な回避を「損得勘定に基づいて性欲を一時的に隠すこと」に限定していたことに気づきました。言われてみれば確かに、これ以外にも性欲の意識的な回避は存在しますね。もちろん今すぐに僕の百合の定義を改めることはしませんが、これからはそういった感情を扱った作品にもアンテナを張り、自身の百合観の更なる発展に役立てて行きたいと思います。意見を下さった皆さんありがとうございました。

最後に、人数について。まず、この絵を見てほしいんですが、僕の中で百合と恋愛は完全に別物です。

f:id:kramija:20160604153853j:plain

関連:立体的日常系論~サザエさん時空からゆゆ式時空へ~ - kramija’s blog

この図自体は適当に描いた意味不明なものなのですが、とにかく恋愛と性欲って絶対に切り離せないものだと思うんですよね。これは別に悪い意味ではありません。ただ恋愛と百合は性欲という軸を設定すると明確に分けられるというだけです。しかし、一般的にはこの二つはあまり区別されていないようで、恋愛はもちろん二人で行うものなので百合もそうなんじゃないかみたいな固定観念を持っている方が多いかもしれませんが、僕はそうは思いません。百合に人数制限は無いと思います。(twitterで一時期三人からが百合だみたいな主張をしている一団がいましたが別に僕は彼らの味方でもないです。あくまで人数の指定がないと主張しているだけであって、二人でも百合だと思います。)

 

4 おわりに

   また長々と書いてしまいました、すいません。一応かなり削ったつもりなのですが。とにかく、これが僕の百合の色です。もちろん、この定義を他人に押し付けるわけではありません。理系の人間なので定義をしっかりしておかないと議論に進めないのでブログとして形にしただけです。本当はこのブログを読んだ方が「俺の百合はこうだぜ!」みたいな返答(例えそれが批判的な内容であっても)をくれるとあったけえインターネットを感じられて最高なのですが、なにしろインターネットのお友達が少ないので期待しないでおきます。もしよかったら書いてね。

立体的日常系論~サザエさん時空からゆゆ式時空へ~

春ですね。kramijaです。毎年春になると思い出すのが、2013年春に放映したアニメ「ゆゆ式」です。と言うことで今回はアニメゆゆ式の話をします。(以上、導入終わり。)

 正確には「一般的な日常系アニメというのはどういうもので、アニメゆゆ式はどういう点で新しく、その新しさが意味するところとはいったい何なのか」という話をするのでアニメゆゆ式を視聴していない読者の方でも楽しめると思います。というか実を言うと僕もゆゆ式はアニメしか見たことがなく、コアなファンとは言えないのでコンテンツに突っ込んだ話はあまりできないので安心してください。ではやっていきましょう。

 

1.日常系の発生経緯

  まずは一般的な日常系アニメの話から。日常系というワードをインターネットで検索してみると、「劇的なストーリー展開を極力排除した、登場人物たちが淡々と日常を送るもの(ニコニコ大百科より引用)」等の当たり障りの無い説明が出てきます。Wikipediaなんかで検索するともっと長々とその歴史や定義を語ってくれるので面白いです。面白いですが、長いです。長い上に不正確です。不正確というのはどういうことかと言いますと、どのサイトでも日常系を特徴づける性質として「物語性が希薄であること」「因果関係が存在しないこと」を挙げているんですよね。これは明らかな誤認識ではないでしょうか。僕はむしろ日常系ほど因果関係が明確な世界設定は無いと考えています。例えば、いわゆる「爆発オチ」のコマあとそのキャラが何事も無かったように振舞う姿などを取り出して「因果関係を放棄している」などと評価したのでしょうが、これは非本質的かつ一面的な見解であると僕は考えます。なぜなら、日常系の根幹を成す本質的な要素はキャラ同士の掛け合いで、その掛け合いは非常に整然とした因果関係で成り立っているのです。あるキャラが喜ぶとき、すべての読者はその原因を一意に定めることができる。悲しむ時、怒る時も同様です。誰もがその理由をはっきりと述べることができる。これはひとえに物語が明確かつ短距離の因果関係で紡がれているためです。よって、日常系を「非物語的である」と評するのは大きな間違いです。「本質的な物語性を追求した結果非本質的な部分の因果関係が不明瞭になった」と書く方がよほど正確です。そして話を元に戻しますと、この感情の明確かつ短距離の因果関係こそファンが日常系作品に求めることなのです。現代を生きるオタクの皆さんは往々にしてコミュニケーションが不得意です。現実世界で他者の感情の機微が読み取れず苦労すると言う経験が日常茶飯事であり、複雑かつ長距離の因果関係に嫌気が差し、それ故日常系という平面的なコミュニケーションに惹かれる。今回はアニメの話なのでオタクの話には深入りしませんが、とにかくこういう経緯で日常系ブームが発生したのではないかと僕は考えています。(Wikipediaさんやニコニコ大百科さんには全然違うことが書いてあるので皆さまにおかれましては自ら理性を働かせてどちらが正しいか判断してください。)

 

2.一般的な日常系の手法

  では次に一般的な日常系がどのような手法で明確かつ短距離の因果関係を実現しているかを考えていきましょう。そもそも、明確かつ短距離の因果関係は弱い感情のもとでしか成立しません。強い感情は一朝一夕で構築されるものではなく、その発生には必ずや複雑に入り組んだ因果関係が必要となります。つまり、強い感情を入れようとすると否応なく物語の因果関係は複雑かつ長距離となるのです。それ故、日常系は強い感情を排除する。では、強い感情を入れないためにはいったいどんな手法を用いればよいのか。それはズバリ、「世界を平面的に構成すること」ではないかと僕は考えています。一般的な日常系アニメはいわゆる「サザエさん時空」で展開されますね。これは我々の住む現実世界から時間軸を取り去り次元をひとつ下げたある種平面的な時空です(ある区間内での時間の流れは存在するので時間の不可逆性を取り去ったと形容したほうが正確ですが)。このサザエさん時空においては時間の不可逆性がもたらすさまざまなイベントが発生せず、それに従い強い感情も排除されます。同時に、精神的変化や成長が存在しないためキャラの性格も平面的になり、この「平面化」により一人のキャラに様々な属性を背負わせることが難しくなった結果、新たな属性を導入するたびにキャラを増やす必要があります。一般的な日常系アニメの登場キャラ数が多い理由はこう説明すると筋が通りますね。

 ここでひとつ補足を。僕は普段twitterなどでも弱い感情・強い感情と言う単語を使ってしまうのですが、今回登場した弱い感情、強い感情と言う区別は僕が普段用いているものとは異なります。僕が百合等を論じる時に用いる感情の強弱は相対的なもので、具体的に言うと性衝動などの本能的な感情を強い感情、それ以外のものを弱い感情としています。しかし今回扱っている感情の強弱は絶対的なものです。弱い怒りや弱い喜び、弱い悲しみを弱い感情と表現しました。紛らわしくてすみません。

 

3.アニメゆゆ式の登場

  さて、「平面化」が明確かつ短距離の因果関係構築のための便利な手法であることはお分かりいただけたかと思います。では、平面化は日常系であるための必要条件なのでしょうか?平面化無くして日常系は成り立たないのでしょうか?この問いに対する答えがアニメゆゆ式です。ゆゆ式は縁、ゆずこ、唯という従来の日常系的(=平面的)関係で結ばれた少女たちを時間の不可逆性が存在する時空にどれだけ整合性を保ったまま入れられるかというある種実験的な試みとしての側面を持っていたのではないかと僕は考えています。それは、主要キャラ三人だけ髪の色が古典的日常系色で、それ以外の人間は全員常識的な色をしていることからも伺えます。三人は平面から「抜き出され」て、立体の中に「入れられ」たのです。そして、結論から言えばその実験は成功しました。平面化は日常系のための必要条件ではなくただの便利な手法の一つに過ぎなかったのです。以下では、日常系を立体的に展開することにより具体的にはどのような点に変化が起き、どのような点には変化が起きなかったのかを作中でのエピソードを交えながら考察していきたいです。考察していきたいのは山々なのですが、最近やっと気づいたことがあって、文字だけのブログを8000字くらい書いても誰にも読んでもらえないんですよね(とても悲しい)。そこで今回はごくごく簡潔にその実験の結果を述べます。

 時間が不可逆に進行する時空に閉じ込められた三人は、その不可逆性ゆえほかの日常系作品では見られない関係性を構築します。その性格は立体的な構造を成し、たとえばゆずこは「成績優秀でありめがねキャラでもありながら基本はボケ担当のお調子者」という普通の日常系の三人分くらいの人格を一身に引き受けています。また、彼女たちの人間関係も同様に立体感を獲得します。例えば相川さんと三人の関係は物語初頭と終盤でまったく異なるものとなっています。これは、固定された時間軸で展開される平面的な人間関係では絶対に実現不可能な現象です。また、第五話「唯と縁 とゆずこ」に見られる三人の絶妙な距離関係も時間軸の存在により実現されました。一般的な日常系にも幼馴染は登場するのですが、それはあくまで属性のひとつに過ぎず、時間的な立体感が効いてくることはありませんでした。幼馴染であれ中学から知り合った友人であれその心理的距離は等距離であると言うのが今までの常識だったのです。しかし、ゆゆ式五話はこの常識を打ち破りました。そして極めつけは彼女たちが死を認知していると言う事実。三人の少女たちはそこから目を背けずにしっかりと向き合っている。時間の不可逆性を入れればそこに死の概念が入り込むのはまあ自然なことと言うか避けられない展開なのですが、これをわざわざ作中で取り上げたのが三上先生のすごいところです。当たり前ですがこれも従来の日常系では絶対に実現し得ない話です。とまあ語りだすとキリが無いのですが、ともかくここで重要なことは、人間性、人間関係、世界観が立体的な構造を成した状態でも弱い感情による明確で短距離の因果関係は成り立っている、と言うことです。これは本編を見ていただければわかるのですが、ゆゆ式は明らかに日常系です。一切の強い感情が存在しない。これは明らかに先述の実験の成功を意味しています。ゆゆ式は「立体的な時空においても日常系は展開し、それどころか従来の日常系には成しえなかった様々な奥深さを獲得することができる」ことを示したのです。そう、アニメゆゆ式という実験の成功により日常系はサザエさん時空のみならずひとつ次元が上のゆゆ式時空上でも成り立つのだということが証明されたわけです。すごいぞゆゆ式。ありがとうゆゆ式

 

4.おわりに

本当はこの十倍くらい語りたいのですが今回はここで切り上げます。気が向いたらこの記事を既知としたゆゆ式考察8000字みたいなのを書くかもしれないです。そのときはまたよろしくお願いします。それでは。

オタクはなぜアイドルに惹かれるのか

今回はアニメの考察ではなく初回記事同様普段考えていることを文章化して整理する(ついでに皆さんに見てもらい同意や批判を頂戴してその完成度を高める)為の記事です。題材はタイトル通り「オタクはなぜアイドルに惹かれるか」

 昨今、巷はアイドルゲームやアイドルアニメ、そしてそこから派生するアイドル声優といったいわゆる「二次元アイドルコンテンツ」で溢れかえっています。そんな二次元アイドル時代とも言うべき現代、その真っ只中を生きる我々オタクはしばしば「なぜ自分はアイドルコンテンツが好きなのか」、あるいはもっと一般化して「なぜオタクはアイドルコンテンツにはまりやすいのか、アイドルの何がオタクを惹きつけるのか」という疑問に直面します。

例えば、アイドルアニメを見て顔面をぐしゃぐしゃにして泣いている時。「俺はなぜこんなにも泣いているんだろう?」と。あるいは、アイドルライブで高まりすぎて全身をクネクネ動かしながら「ヤバイバイ!マジでヤバイ!」とわめき散らしている時。「何がそんなにヤバイのだろう?」と。皆さんも、そんな疑問に直面したことがあるでしょう。僕も同じです。

無論、こんな疑問は無視してただ目の前に広がるアイドルオタク道を突っ走るのもひとつの有効な手段でしょう。元来、オタクの涙や高まりは本質的な意味を欠くものですから。しかし一方で、この賢明なる無関心の果てに“破滅”が待ち構えている恐れがあるのもまた事実です。少し前にtwitterで流行した短編漫画を覚えている方はいらっしゃるでしょうか。その内容は「地下アイドルオタクをしていた太った青年がオタク活動を続けるうちに『自分は他人の夢を応援することに夢中になるあまり自分の夢を追うことを疎かにし、気づいた時には手遅れになっていた』と気づき絶望する」というもの。これこそが賢明なる無関心の先に待ち構えているかもしれない破滅です。自分が追っていたものの正体は“虚構”であったと気づいた時にはもう遅いのです。

僕は陰惨たる青春時代を送り、無意味なことを考える時間はたっぷりとあったので一応成人し本格的に人生を「応援」に捧げる前にその行為の意味するもの、それにより得られるもの、失うものははっきりと見極めたつもりです。(もちろんこの先なんらかの外的作用によりパラダイムシフトが起きる可能性はありますが。)しかし、漫画の太った青年のように、世の中にはそんなジメジメとした青春時代を送らずにオタクになったために今になって自分の進む道に不安を覚えている人もいることと思います。実はこの記事は今年四月に書いたプロトタイプを大幅に加筆した改定版なのですが、そのプロトタイプのアクセスを解析すると「アイドル 存在理由」や「アイドルオタク なる理由」など相当に思いつめた検索ワードを打ち込んだ末当ブログにたどり着いたオタクが予想外に多数いて嬉しいような悲しいような気持ちになりました。

そんな悩めるオタクたちのためにほんの少しでも力になれれば、という思いが1%くらいと自分がアイドルに惹かれる理由を文章化することで一歩引いた立場から冷静に分析し新たな発見を得ることで一週間後に控えるデレマスライブでさらなる「高まり」をしたいという思いが99%くらいの比率で混ざり合い生まれたのが今回の記事です。当記事が私の立場を明確にすることはもちろん、読者の方々のアイドルについての考察をより一層深める助けになれば幸いです。

 ※1 以下、特別な断りを入れない限り僕が使う「アイドル」と言う言葉は「二次元コンテンツにおけるアイドル」を指します。

 

1.少女たちはなぜアイドルを選択するのか

   まず始めに考えるべきは最も根本的かつ本質的な問題である「少女たちがアイドルを選択する理由」です。我々オタクを惹きつけてやまない“アイドル”という存在。そのアイドルたちもアイドルになる前は普通の少女でした。この少女たちがアイドルを選択する、アイドルに「惹かれる」に至った経緯を考察することで、我々はアイドルが持つ引力の正体に近づけるはずです。ここで注意されたいのは、今から考えるのは「アイドルを目指す理由」ではなく「アイドルを選択した理由」です。と言うのも、当然のことながらなぜアイドルを目指すのかという問いに対する答えは一人ひとりで異なります。「人々を笑顔にしたいから」「多くの人に自分の歌を聞いてもらいたいから」、あるいはもっと単純に「可愛い服を着たいから」なんて理由を挙げる人もいるでしょう。そのため、そこに何かひとつの共通した理由を与えることはできません。

しかし、なぜ「アイドル」なのでしょう。例えばボランティア活動をしても人を笑顔にできますし、歌に自身があるならミュージシャンとしてデビューするという選択肢もあります。モデルになれば可愛い服を着られますし、極論服なんて自分で買って着てればいい気がします。それでもなお、「アイドル」という手段を選ぶ少女たちがいる。それはなぜか。当然、先ほどから再三にわたって言及している「アイドルが持つ引力」のためでしょう。ではその引力の正体は何か。結論から言えば、「巨大な物語」ではないかと僕は考えています。(以下、僕の初回記事を読んでいると内容が頭に入って来やすいかもしれないので読んでいない方はもしよろしければ下記のリンク先に飛んで読んでみてください。文章ばかりなうえ非常に冗長なのでもちろん読まなくても良いです、読んでいない人でもわかるようなるべく簡潔に書きます。

http://blog.hatena.ne.jp/kramija/kramija.hatenablog.com/edit?entry=10328537792363418847

「物語」というのはすなわち、一本の因果の糸で繋がった二つ以上の出来事のことです。こう書くと非常に抽象的なイメージを与えてしまうかも知れませんが実際にはたいしたことのない話で、例えば「ご飯を食べる前に手を洗った」という一連の行為は既に(僕の定義の上では)物語です。「手を洗う」という行為は「ご飯を食べる」という目的を明確に意識して行われ、達成された。僕はこの行為-目的の関係性を因果の糸と呼んでいます。この例でお分かりいただけたかと思いますが、物語は日常のいたるところに潜む非常に普遍的な事象です。では、「自分の将来の夢は医者だ。自分は今年医学部受験を控えた受験生で、今は受験勉強も大詰めの時期だ。この大切な時期に風邪を引いたら大変なので、食事の前に手を洗った」という例を考えてみましょう。行為-目的のつながりを→で表すとこの例は「手を洗う→風邪を引かないようにする→受験勉強をする→受験に受かる→医者になる」というように、ひとつ前の例に比べて因果の糸が「長く」なっています。あるいは彼に「今年は弟が医学部受験を控えているので家事はなるべく自分がやるように心がけている」という兄がいるとします。これは弟の物語に兄の物語が関わることで物語同士が因果の糸で繋がるという「物語の二次構造」が形成されている例です。つまるところ、人が何か大きな目標を持つとその目標へと伸びる因果の糸は「長く」「複雑に」なるのです。ぼくはこのことを「物語の巨大化」と呼びます。

では、本題に戻りましょう。アイドルという存在が持つ強い引力の正体はこの「巨大な物語」でした。しかし具体的にはアイドルという物語はどのように巨大なのでしょう。

まず前提として、アイドルはある程度容姿が良くないとつとまりません。それはもちろん生まれたときにおおかた確定されるものですが、それだけではありません。体型維持のための食事制限や運動に始まり、肌の手入れや爪磨きまで気を抜く隙がないでしょう。その傍ら、歌やダンスのレッスンを行わなければなりません。同世代の女の子たちが放課後繁華街で遊ぶのを横目に一人でレッスン場に向かう日もあるでしょう。それもすべてライブのためです。少女から伸びる因果の糸はすべてライブという大きな目標へと繋がります。そしてライブ当日。あれほど練習をしても、どれだけ自信をつけても足は震え緊張で心臓が飛び出しそうになるでしょう。そんな時少女を勇気付けるのは仲間の背中でありスタッフの目配せでありファンの声援です。スタッフに背中を押され仲間たちと手を繋ぎファンの待つステージへの階段に足をかける──すべての因果がステージの上に収束していく瞬間は、これ以上にないほど壮大な物語です。この壮大な物語こそが、少女をアイドルへと引きつけるのではないでしょうか。

 

2.ファンの存在意義

   さて、では今度はファンに焦点を当てましょう。前章で「少女たちがアイドルを選択するのはアイドルになるためだ」といういわば自己完結的な解釈を与えてしまった以上、ファンの存在意義が一見宙ぶらりんになってしまいました。だからと言ってファンは存在しなくて良いかと言うと、それは短絡的過ぎます。ファンにはちゃんと役割があります。それは、「承認」です。物語が成立するためには少女の努力を、才能を、すなわち少女本人を承認する役割が必要です。細かく言うとこの承認には物語の内野、すなわち物語の中心を通る最も本質的な因果関係の内部から行う承認とそれ以外の場所、つまり外野から行う承認があり、前者はいわゆる「プロデューサー」や「支配人」の役目で、後者は「ファン」の役目です。これだけ聞くと「なんだ、やっぱりファンは蚊帳の外かよ」とへそをまげてしまう方がいるかもしれませんが、それは違います。この「外野からの本人の承認の存在」こそがアイドルをアイドルたらしめる、もっと言えばアイドル性の定義そのものになるのです。つまり、内野からの承認しか存在しない物語は「恋愛」になってしまいますし、外野からの承認が本人ではなく曲や着衣に向けば少女はアイドルではなくミュージシャン、モデルになってしまいます。外野からの本人の承認があって初めて少女はアイドル性を手にするのです。

 

3.オタクはなぜアイドルに惹かれるのか

   ではようやく本題です。オタクはなぜアイドルに惹かれるのでしょう。まず先に断っておきたいのですが、僕はこの記事を書くに当たりその辺のアイドルオタクにインタビューをしたわけではありません。そのためオタクはなぜアイドルに惹かれるのか、という議題についても自分の経験をベースとした議論をせざるを得ないです。これ以降を読む人はそれを念頭に置いた上で読み進めてください。

   まず初めに僕の得意技であるオタクの分類をします。いや、実際一口にオタクといってもものすごい種類が存在してそれらを十把一絡げに語ることなんて到底出来ないんですよ。だからしょうがなくやっているのであって、僕がオタクを分類したがるのはオ

タクが好きだからではないです。むしろオタクは嫌いです、キモいし。俺は美少女が好き。美少女が大好き。

   一章で説明したとおり、アイドルが持つ魅力を成分に分解するとアイドル本人が持つ引力(魅力)以外にその背後にある巨大な物語の持つ引力というものが存在することがわかりました。そこで、前者に惹きつけられたオタクと後者に惹きつけられたオタクの二種類にアイドルオタクを分類してみましょう。

   前者は、実在アイドルのファンに多い印象があります。僕は中学生のころAKB48のオタクをやっていた時期があったのですが、まさに前者のオタクでした。つまるところアイドルを「めっちゃ可愛くて僕にも愛想よくしてくれる女の子」と認識して推していたわけです。今はもうAKBというか実在アイドル全般のファンを辞めてしまったので良くわからないのですが、いわゆる「レス厨」や「接近厨」などの存在はたぶんこのオタクの最たる例ですね。物語論的に言えば自分の人生の物語に頑張ってアイドルを登場させようとしているオタク、という感じでしょうか。こう書くとなんだか非常に動物的で気持ちの悪いオタクのような印象を受けますが、このような消費行動こそが元来想定されていたアイドルコンテンツの消費方法でしょうし、ある意味非常にオタクらしいといえます。というかこれから書く後者のオタクのほうが不気味で気持ち悪いので相対的に見ればそんなに気持ち悪くないです。

後者のオタクはまず、背後にある物語に惹かれている、という点である意味アイドル本人と同じ目線に立っています。しかし当然のことながらアイドルにはなれない。そこでアイドルを「推す」わけです。これは僕が好んで使う表現なのですが、後者のオタクはアイドルに自己実現を代替させているわけです。彼らは、自分の人生の物語はそっちのけでアイドルの物語の成就を切に願います。仙人のような生活をして衣食住にかかる金を切り詰めゲームに課金したりイベントに通っているオタクの一部は間違いなくこの種のオタクです。

自己実現の代替という概念をもう少し掘り下げます。この概念自体はわりとどこにでもあるもので、例えばはるか昔に引退したくせにちょくちょく練習に顔を出すOBみたいな人種が居ますね。先輩ヅラしたいというのが大半の理由でしょうが、自分には成しえなかった大会優勝を目指し頑張る後輩たちを応援したいという気持ちも少しはあるでしょう。これが自己実現の代替です。ですが、アイドルコンテンツにおける自己実現の代替はこれとは少し意味合いが異なります。

まず、その断絶の巨大さ。オタクとアイドルの間にはOBと後輩とは比較にならないほど巨大な断絶があります。次に、その独特の立場。オタクの存在意義の項に書きましたが、アイドルの成立のためにはファンの存在が不可欠です。OBは居なくても大会優勝できますが、オタクが居ないとライブは成功しません。この巨大な断絶と存在意義の獲得という二つの特異性のために、オタクは非常に居心地の良い思いをします。アイドルという物語の隅の隅に「応援者」として腰を落ち着けて、はるか遠くにある自分の人生の物語のことなど忘却してひたすらに少女の美しい物語を鑑賞する。こうなってしまえばもう、最初に話した太った青年オタクのように自分の苦悩することもありません。

   大抵のオタクは、この二つのタイプの複合型でしょう。いや、正確に言えばすべてのオタクが前者の性質を備えていて、一部後者のオタクの性質を兼ね備えているといったところでしょうか。ともかく、以上がオタクがアイドルに惹かれる理由の僕なりの考察です。ぶっちゃけこの10倍くらい言いたいことがあるんですが今回はここまでにします。たぶんまた何度か加筆して、年末までには完成させることになると思います。興味のある人はまた覗いてみてください。

 

響け!ユーフォニアム考察〜あの日、黄前久美子は高坂麗奈の中に何を見たのか〜

 

しばらくぶりです。kramijaです。今回は予告どおり2015年春クールに放映されたアニメ、「響け!ユーフォニアム」の考察を行いたいと思います。読者はこのアニメを視聴済みであることを前提に進めるのであしからず。(なんかこのへん「響けユーフォニアムとは~」みたいな感じでwikipedia引用したりして二期の話とか劇場版の話とか原作の話とかもうちょっとちゃんとやったほうがいいのかも知れないんですけどめんどうくさいのでやりません。許してね。)

 では前置きをすっ飛ばしてさっそく本題に入りたいのですが、まず先にこの考察の目的と言うか概要を述べておきます。この考察は「黄前久美子にとっての高坂麗奈(あるいは高坂麗奈にとっての黄前久美子)はいったいどんな存在なのか、そして二人が出会ったことで久美子の人格はどのような変化を起こすのか」を僕が定めた作中での重要イベント1~4に着目することで読み解くことを目的としています。形式としては各章でまずイベントの説明を行い、その後そのイベントによって起きたと考えられる久美子や麗奈の行動の変化が見られるシーンを箇条書きで解説していきます。では、始めましょう。

0.高坂麗奈と出会う前の黄前久美子という人物について

 響け!ユーフォニアムのアニメ第一期は黄前久美子が高校一年の春に北宇治高校に入学してから夏のコンクールで金賞を取るまでの軌跡を時系列順に追う構成になっていますが、その間たびたび久美子の過去の回想シーンが登場し高坂麗奈と出会う前の久美子の人格を推定する手がかりとなります。この考察の主眼である「高坂麗奈という人物との邂逅が黄前久美子にもたらした人格の革命的な変化」を論じるに当たってその変化以前の黄前久美子像を固めておくのは非常に大切なことだと言えるので、第0章では作中の回想シーンに何度も登場することから久美子の人格形成にとって重要な意味を持っていると考えられる二つの出来事をもとに初期の久美子についての考察を慎重かつ丁寧に議論を進めます。(久美子と麗奈は同じ中学校に通っていたので二人の出会いは厳密には中学入学時にまでさかのぼるのですが、今回は物語的な面から見た二人の接触、すなわち黄前久美子の「カメラ」に高坂麗奈が初めて映った中学三年生のときのコンクール(イベント1)を二人の出会いの定義とします。)

 その重要な二つの出来事とは、①久美子の目標であった姉の麻美子が大学受験を理由に吹奏楽をやめてしまった②中学一年の夏、先輩から「A(おそらく実力順にチーム分けが為されていてAは一番上のチームであると考えられる)になったからってバカにしているのか」と強い口調で責められた ことです。

 ①、②の出来事を通して久美子は「ユーフォニアムを上手く吹けるようになりたい」「吹奏楽を続けたい」という意志を貫けば必ず受験や先輩との軋轢という壁が待ち受けていることを思い知りました。そして、もともと持ち合わせた意志の弱さ(これは例えば楽器を始めるときにほかに志願者がいなかったことからユーフォニアムを選んだことなどからわかるように久美子の特徴的な性格です)もあいまってそれらの壁に対して自分なりの答えを見つけることができず「一生懸命続けてもどうせやめるときが来るしいろいろな不都合が生じるのだから程々でいい」という考えを持つようになったと考えられます。フロイト精神分析学用語を借りれば合理化(すっぱい葡萄の話のアレです)をしたとも言えますね。そうして何をするにもどこか冷めた態度で臨むやれやれ系?主人公黄前久美子が完成しました。しかし、ここで注意されたいのはこれらの性格は行く末に待ち受ける壁を越えるほどの意志力がなかったがためにでっち上げたその場しのぎのものであり、久美子の本心とはまったく異なります。これについてはすぐ後の第一章で詳しく説明します。

 

1.中学三年時のコンクール(イベント1)

 0章で述べたように努めて「一生懸命になること」「夢中になること」を避けるように生きてきた黄前久美子ですが、中学三年の時、ある衝撃的なシーンに遭遇します。それは中学三年のときの吹奏楽コンクールでの出来事。以下作中でのやり取りをそのまま抜き出します。

「高坂さん、泣くほど嬉しかったんだ...良かったね、金で」「くやしい。くやしくて死にそう!何でみんなダメ金なんかで喜べるの!私ら全国目指してたんじゃないの!?」

「え...本気で全国いけると思ってたの?」「あんたはくやしくないわけ?私はくやしい。めちゃくちゃくやしい!」

 このやり取りこそが、黄前久美子高坂麗奈両名にとって運命的なものとなりました。以下、その理由を説明します。まず、久美子。本気で全国を目指していた高坂麗奈に呆れてつい口をついて出てしまったはずの言葉が、あろう事か「自分自身に」突き刺さってしまいます。そう、あの日、あの時、高坂麗奈と同様に黄前久美子もまた、全国にいけなかったことが悔しかった。徹底的な合理化により隠し続けていた「内なる黄前久美子」は、実は全国に行きたかった。そうです、高坂麗奈黄前久美子の隠された本心を体現した存在だったのです。そして次に、高坂麗奈。作中での振舞いを分析すると、高坂麗奈黄前久美子と正反対の人格形成をしてきたと推察できます。つまり、高坂麗奈は高くそびえる壁を見て「越えられるはずがない」と冷静な判断を下す自分の声に耳をふさいで壁に向かって突進するタイプの人間なんです。今回のコンクールもそうだったと思います。彼女だって、心のどこかでは全国にいけないことをわかっていた。そんな自分から目をそらしていた。そこを黄前久美子に指摘された。熱くなることで耳をふさいできた「内なる高坂麗奈」の声が、あろうことか黄前久美子の口から飛び出した。正反対の人格形成をしてきた二人が、互いの中に内なる自分の影を見る。これは、実に運命的な出来事です。イベント1には実は、このような意味があったと僕は考えています。これは、かなり確信を持って言えます。

・一話、久美子が進学先に北宇治を選んだ理由

 高坂麗奈の中に本当の自分を感じた黄前久美子は、大きな恐怖を感じたはずです。高坂麗奈が感情をむき出しにして泣く姿は、傷つかないために合理化までして守ってきた本当の自分が傷つく姿に他ならないのですから。だから黄前久美子高坂麗奈を避けるようになった。それゆえ、進学する高校も地元から離れた北宇治を選んだのだと思います。久美子本人は北宇治進学の理由を「いろんなことを一度リセットしたかったから」と述べていますが、これは合理化に過ぎないと思います。合理化というか、無自覚ですね。イベント1で非常に強い衝撃を受けたものの、まだ本当の自分=高坂麗奈という等式をはっきりとは自覚していないんです。だからこそ、理由のわからないもやもやに悩まされる。なぜだかわからないけど、高坂麗奈の近くにいると落ち着かない。だから麗奈とは違う学校でリセットしようという気持ちになったんです。

・一話、久美子が吹部の演奏を初めて聞くシーン

 もちろん高坂麗奈が進学するであろう全国大会出場常連校を避けて北宇治に進学したのだからある程度は覚悟していたんでしょうが、それでも久美子は北宇治高校吹奏楽部の演奏の下手さにショックを受けます。こういうシーンからも、本当は全国に行きたい黄前久美子の本心が伺えます。

・一話、吹奏楽部の演奏を聞き教室に戻った久美子の独白(本当は加藤葉月に聞かれていたので独白ではないのかもしれないですが)

 「下手すぎる!」と憤ったあとで「でもまあ、全国目指す感じじゃないんだろうなあ」と心の中でつぶやき、刹那、イベント1がフラッシュバックする。これ、象徴的なシーンだと思います。久美子は本当は全国に行きたいんです。だけど本心が出てくる代わりに高坂麗奈のあの泣き顔が頭に浮かぶ。涙を流す麗奈を思い出すことで「ほら、全国を目指すのはあんなに大変なんだぞ、痛いんだぞ、苦しいんだぞ」と自らに言い聞かせる。そうして封じ込める。お得意の合理化でやりすごしているんです。しかもたぶんこの時点では、無自覚に。このように挙げ始めたらキリがないんですが、作中には久美子の隠された本心が見て取れるシーンが多数登場します。

 そんなこんなで演奏技術が低い北宇治高校吹奏楽部に幻滅しながらも新しくできた友人の葉月や緑輝に誘われて吹奏楽部の見学に行く久美子ですが、そこでなんと高坂麗奈と再会を果たしてしまう。これがイベント2です。

 

2.高坂麗奈との再会(イベント2)

 進学先にわざわざ遠い高校を選んでまで避けてきた高坂麗奈に再び出会ってしまった黄前久美子。そのショックは半端なものではありません。久美子の中にまたあの「もやもや」が巻き起こります。悩みに悩み一旦は吹奏楽をやめる決意までして帰宅した久美子ですが、中学最後のコンクールで吹いた地獄のオルフェの楽譜を見ながら当時の自分を思い出します。そして翌朝。登校した久美子の目に飛び込んできたのは、新品のマウスピース相手に悪戦苦闘する葉月の姿。葉月に音を出すコツを教える久美子の頭には、吹奏楽を始めた頃の自分──吹奏楽に夢中だった頃の自分の姿が浮かびます。この吹奏楽を始めたころの久美子は、壁の存在を知る前の久美子、すなわち内なる久美子の姿なんですよね。このシーンで過去の自分を思い出したことはすごく意味があると思います。つまり麗奈という「押し殺してきた自分を体現させた人物」と向き合うことは、間接的とは言え「押し殺してきた自分」そのものに向き合うことにほかなりません。久美子の中でイベント1の麗奈(=挫折する内なる自分)と過去の自分(=希望に満ちた内なる自分)がせめぎ合い、結果として後者が勝つんです。そういう内なる葛藤の末、久美子は吹部入部を決意したのではないでしょうか。

・三話、葉月が「やる気のない人たちにイライラしながら頑張るって、私は、なんか...」と愚痴をこぼしそれを聞いた緑輝が「久美子ちゃんはどう思いますか?」と尋ねるシーン。

 もちろん、内なる自分を体現した存在である高坂麗奈と向き合うこと=内なる自分を守る鎧を取り払うことではありません。ですから依然として久美子は今までのままです。三話で姉から「またユーフォじゃん」と言われて何も言い返せない様子などからもまだまだ久美子の人格に変化が起きていないことがわかりますね。しかし、です。このシーン、今までの久美子なら間違いなく言葉を濁します。実際、そうしようと思っていたはずです。ところが久美子が口を開きかけた瞬間、グラウンドに麗奈が吹く「新世界より」が響き渡る。作中でも説明がありましたがこの新世界よりドボルザークが何もないアメリカ(=新世界)で作った曲なんです。この「新世界」、余計な人間関係や世間体を一切視界の中に映さずただひたすらにトランペットだけと向き合わんとする麗奈の世界(すなわち内なる久美子が望む世界)を連想させませんか?つまり、心のうちでは「余計なことは考えず練習したい」と考えてはいるが口に出せない久美子の言葉を麗奈がトランペットを吹くことで代弁したのです。これは、久美子が麗奈と向き合ったことにより起きはじめた変化(この時点では内的な変化ではなく外的な変化ではあるのですが)を最初に見て取れる大事なシーンだと思います。

・五話、麗奈が久美子に滝先生をどう思うか尋ねるシーン

 まず話は四話で久美子と秀一が麗奈にキレられるシーンに戻ります。麗奈は滝先生のことが好きなので、他人が彼の文句を言ってるのを聞くのはもちろん腹立たしいんだと思うんですが、たぶんあの四話のシーンで怒ったのは久美子が売り言葉に買い言葉とは言え滝先生を否定するような言葉を言わされそうになって焦ったからだと思います。だからこそ、五話で改めて久美子に滝先生をどう思うのか聞くんですよね。一度夢中になると周りが見えなくなる自分を自覚した上で、内なる自分を体現した存在である久美子の冷静な意見を知りたかったからこそあそこで取り乱したんではないでしょうか。

・五話、中学のころの友人に会いに行こうと誘われた久美子がそれを断るシーン

 非常に物語的なシーンです。新しく最初からスタートしたいとの思いを抱えて北宇治に進学した久美子は麗奈と再会し少しずつ変わり始めた自分に気がつきます。もちろんそれは麗奈一人の影響ではなく滝先生が作り出した部全体の雰囲気の変化によるところも大きいのですが。

・六話、三人の合奏

 六話は葉月回?でした。上手く吹けずに悩む葉月をどうやったら元気付けられるか悩んだ久美子と緑輝は合奏をすることで葉月に吹奏楽の楽しさを教えます。そして同時に久美子自身も吹奏楽の楽しさを再発見します。

・七話、葵の退部

 五話のサンフェス、六話の合奏でかなり本来の自分を取り戻した久美子ですが、幼馴染である葵の退部騒動&オーディション開催決定を機にまた悩みモードに入ります。高校入学前に一度立ちはだかった二つの壁を高校入学後の高坂麗奈との再会に端を発した“吹奏楽に夢中になることの楽しさの再発見”により忘れかけていたときに再び目の前に壁が立ちはだかる。実に物語的な展開です。壁を“忘れる”のではいつかまた壁に出会ってしまう。だから“越える”必要がある。でもどうすればいいのか。万事休すかと思われた矢先、イベント3が起こります。

 

3.大吉山展望台での愛の告白(イベント3)

 さて、前章の最後で説明したとおり、いよいよ目の前の問題から逃げられなくなってきた久美子。そんな中偶然久美子は麗奈をあがた祭りに誘うことになり、そしてなぜか当日二人は山に登ります。あのシーンはビジュアル的な美しさだけでなく物語的にも非常に重要な意味を持っています。以下、各ポイントに着目しながら慎重にあの日の出来事を考察していきます。

イ)なぜ山なのか

 まずはこれ。なぜ麗奈は祭りではなく山を選択したんでしょうか。本人は作中で「他人と違うことがしたかったの」と言っていて、実際その通りだと思うんですが、じゃあなぜ他人と違うことがしたかったのかというと、おそらく久美子にもほかの人と違うことをさせることで「麗奈の側」に引き込みたかったからではないかと僕は考えています。八話までは常に麗奈とその他の人という構図が成り立っているんですよね。もちろんあすかのように物語を傍観する孤高の存在もいるんですが、麗奈はそれともまた違うんです。彼女の目指すところはほかの部員たちと同じで、だけどともに歩む存在がいない。孤高というよりは単に孤独なんです。しかも、夢中になると突っ走ってしまう性格がある。だからこそオーディションを前に「冷静な自分」の代弁者である黄前久美子を自分のカメラの中に入れたかった。それゆえ誰もいない山を舞台に選んだのではないでしょうか。

ロ)なぜ麗奈はとびきりのおしゃれをしたのか

 まあこれはもちろん他人と違うことをしたかったからとも取れるんですが、今回はもう少し奥まで突っ込みます。実は僕、今年の二月に大吉山展望台に行ってきたんですよ。で、そこで着想を得たんですがあのシーン全体的に視聴者に処女喪失を連想させるように作られているんですよね。いやもちろんあの時高坂麗奈が処女喪失を意識していたとかそういう話では全然なくてこれはただのメタファーに過ぎないんですけど、じゃあ何のメタファーなのかは少し置いといてどこら辺が処女喪失を連想させるのかという話をします。まず“純潔”の象徴である真っ白なワンピース。そして“痛いけど”“嫌じゃない”という台詞。山を登るという運動により“上がる息”。さらには“靴を脱ぐ”という脱衣の暗喩。これはたまたまそうなったとか僕が普段そういうことばかり考えてるからそう見えたとかそういう話ではありません。明らかに狙ってやっていると思います。では、なぜでしょう。なぜ制作側はあそこで処女喪失を連想させたのでしょう。それは、あの日の大吉山で“麗奈が生まれて初めて他人を自分の中に受け入れた”ことを暗に示すためではないでしょうか。(つまり二重のメタファーです。)いままで興味がない人間とは一切関わってこなかった麗奈は、トランペットだけを見て生きてきました。もちろん、滝先生に恋心を持っているので滝先生のことは頭の中にあると思うのですが、これは思春期女子にありがちな「実在ではなく性質に恋をしている」というやつだと思います。もっと言えば「滝先生というすごい人に恋する自分」を演出しているだけというか。(これは正直高坂麗奈本人に聞かない限りはわからないのですが)そんな中黄前久美子に出会い、彼女の持つ冷静さに目を留めた。この先もっと特別になるためには、久美子が必要だと考えた。そこで、久美子を自分の世界の中に引き込んだんです。

ハ)なぜ楽器を持っていったのか

 新世界よりのときもそうでしたが、麗奈は自分の気持ちを表現するのに言葉ではなく楽器を使うんですよね。で、今回も例に漏れず久美子を受け入れたいという強い思いを曲に乗せます。曲名は「愛を見つけた場所」。互いの中に互いを感じるという強烈なシンパシー、あるいは信頼、あるいは友情を“愛”と表現するための選曲だったのではないでしょうか。

   あの日大吉山で「特別になりたい」という麗奈の決意を聞いた久美子は、麗奈を応援したいと感じます。自分だけに話してくれたのが嬉しかったと言うのももちろんあると思いますが、本質は別のところ、すなわち特別になりたい麗奈を応援することによる間接的な自己肯定にある。いままで押し殺してきた自分は実は正しかったかも知れない。しかしまだわからない。だからとりあえず麗奈を応援するんです。久美子は、麗奈の背中を押すことでその背中越しにうっすらと自分たちの前に立ちはだかる壁の姿を見ている。

 こうして、久美子は少しずつ壁に挑み始めます。オーディションに受かってコンクールに出たい。しかしそのためには先輩たちと競い合わなければならない。目をそらせないからこそ怖いと感じる。以前の久美子にはありえない感覚だと思います。そんな時、やはり勇気付けてくれるのは高坂麗奈です。「私も頑張るから頑張って」という台詞は、「久美子の一歩先を行く麗奈」という構図を良くあらわしています。

・十一話、久美子が優子に「この音どう思う?」と尋ねられるシーン

 オーディションが終わったのもつかの間、滝先生が麗奈を贔屓したのではないかといううわさが立ちます。以前の久美子であれば、間違いなく関与しなかったでしょう。しかし、イベント3で特別になりたいという麗奈の決意を聞いた久美子は、麗奈の側に立ちほかの部員と戦います。そんな中で印象的なのがこのシーン。「ソロにふさわしいと思います!」と答える久美子は、かつて自分の前に立ちはだかった「先輩」という壁を麗奈が越えられるようにその背中を押そうとしているんです。

そして物語はクライマックス、再オーディション(イベント4)へと向かいます。

 

4.再オーディション(イベント4)

 高坂麗奈が先輩である中世古香織と真っ向から対決する。それは久美子が中一の夏以降ずっと避けてきた構図そのものです。だからこそ、オーディション前のやり取りで久美子はあそこまで熱くなったんだと思います。かつて自分が越えられなかった壁を麗奈には越えてほしい。そういう強い思いがあったのです。自分の前を行く麗奈が壁を越えれば自分自身も勇気付けられますからね。そして再オーディションを経て、「麗奈が特別になるのが見たい」という思いは「特別になりたい」という直接的な意志に変わります。自分が背中を押していた麗奈は見事壁を越えた。壁の“こちら側”に一人残された久美子は、今度こそ自分の力で壁を越えようとします。

 ・十二話、保健室

  再オーディションを見て、上手くなりたいという熱病に冒された久美子。合理化の鎧を脱ぎ捨てた彼女は、どこまでも自分の気持ちにまっすぐです。「そもそも今までの自分はどんなだったのか」という台詞に四つのイベントで彼女の人格に起きた大きな変化が伺えます。

 ・十二話、「上手くなりたい!」のシーン

  泣けます。めちゃくちゃ泣けます。ついに久美子はイベント1の時の麗奈に追いつく。「悔しくて死にそう」という思いをめいいっぱい表に出す。最高のシーンです。

 ・十二話、自室で姉と言い合うシーン

  泣けます。死ぬほど泣けます。ついに自らの力で壁をうち破った久美子。「音大行くつもりないのに続けて意味あるの?」という姉の問いに(姉の問いであることに意味があるんです!かつて受験を理由に吹奏楽をやめた姉!その姿を見て本当の自分を押し殺すようになった久美子!しかし!もう久美子は昔の久美子ではない!姉のほうをしっかり見て!久美子は!)「意味あるよ、私、ユーフォが好きだもん。私、ユーフォが好きだもん。」と返す。「好き」、それだけでいいんです。好きだからユーフォを吹く。それ以外は考えなくていい。それが、麗奈と出会い久美子が見つけた「答え」です。

 ・十二話、ラストシーン

  「努力したものに神様が微笑むなんて嘘だ。だけど、運命の神様がこちらを向いてウインクをし...」という久美子の台詞。久美子らしいですね。合理化の鎧を脱ぎ捨て目の前の壁を打ち破った久美子。眼前には果てしない未来が広がっています。これぞ、青春です。  

 ひたすら何かに夢中になった経験、これは、間違いなく人生の財産になります。アニメ響け!ユーフォニアムは中高でまじめに部活に打ち込むことなくただただ時間を浪費した僕にとても大切なことを教えてくれました。ありがとうスタッフ。ありがとう声優の皆さん。ありがとう高坂麗奈。そして、ありがとう黄前久美子

 

5.おわりに

 僕の考察はここで終わります。アニメの考察って生まれて初めて書いたのですが、すごく大変でした。日ごろ考えていることを文章化するのって意外と骨が折れますね。でも、楽しかったです。すごくいい経験になりました。と同時にまだまだ鍛錬が必要だなあとも感じました。修行を積んで機会があればまた何か書きたいです。その時はまたよろしくお願いします。それでは。

物語の再定義とそこから得られるオタクの分類

 

今回ついにブログを始めることにしたのですが、最近長い文章を全然書いていなかったのでウォーミングアップをかねて僕が普段考えてること(物語論)をそこはかとなく書きつくっていこうと思います。

 

  1. カメラと物語について

「物語」と一口に言ってもそこには多種多様な認識、解釈があります。それ故、たとえばこの先僕が投稿するであろうアニメの批評や感想において「これは非常に物語的な展開であり云々」のようなフレーズが出てきた際、読者諸君の混乱を招いてしまうことが予想されます。(アニメは物語なんだから物語的なのは当然だろう?みたいな疑問が生じてしまうだろうということです。)そこで、あらかじめ僕が考える「物語」とはどういった概念であるかを説明しておきたいと思います。

 さて、この世に星の数ほど存在する「物語」と銘打たれた文章、漫画、映像等に共通する要素とは何でしょう。僕はズバリ、「世界のある出来事に関連した複数の場面をカメラによって切り取り、それらを意味が通るように張り合わせたものであること」ではないかと考えています。ただし、ここで言う「世界」とはわれわれの住む世界でも良いですし、創作により生み出された架空の世界でも構わないとします。とにかくなんらかしらの世界のいくつかのシーンをカメラによって切り取り、時にはそのまま、時には文章化して張り合わせる。こうして出来上がったものが物語です。カメラは写したいものだけを写すことができますし、逆に言えば写したくないものは徹底的に排除することができますね。つまり、物語において、そこに登場する人、事物、現象は意図的に切り取られたものであり、そのすべてに登場の理由がある。端的にいえば、物語においては原因-結果という因果関係が整然と成り立っています。この、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っている」ことこそが物語の特徴、性質であると言えるのではないでしょうか。と、少なくとも僕は考えています。これらのことを踏まえると、例えば僕が使う「物語的である」というフレーズは、「その場面に登場するキャラクターたちは皆登場するべくして登場したのであり、その役割は彼/彼女にしか担えないものであり、その行為一つ一つに非常に大切な意味がある ああ凄い なんて感動的なんだろう」といった趣旨であると言えます。また逆に、「非物語的である状況」というのは、なんだか原因のはっきりしない理不尽な仕打ちを受けたり誰も幸せにならない出来事が起きたり無駄な努力をしている状況を指します。

2.人生は物語である

  少し話題を変えます。我々は今現在、「人生」というレールの上を歩んでいますね。このレールはもちろん後ろにも前にも、つまり過去にも未来にも存在しますが、今回は過去のレールに着目します。この「過去の人生」、別の言い方をすれば「あなたの記憶の中に存在するあなたがこれまで生きた軌跡」、これも「物語」であると言えます。この地球という″世界″において″あなた″という人物について起きた一連の出来事を″あなた自身の目″というカメラで切り取り″脳″に記録した物語、それこそがあなたのこれまでの人生です。就職して結婚して子供を作って庭付き一戸建てに住むという物語、ミュージシャンになり酒と女とROCKに溺れる物語、…人の数だけ物語があります。ですが、如何に多種多様な人生を歩んでいようと、人は皆「非物語的な」人生を嫌います。努力が実らなくて喜ぶ人はいません。誰も幸せにならないような行為を積極的に行う人はいません。  しかし、避けても避けても人生の非物語化が起きてしまう場合があります。僕はこれを「人生の物語化の失敗」と呼んでいます。人生の物語化の失敗はいつ起きるのでしょうか。それはもちろん人生と言う物語に不可避的に「非物語的な要素」が食い込んできたときです。ですが、この「非物語的な要素」とは何でしょう。先ほどの定義に従えば、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っていない要素」と考えることができますが、これは「その物語が展開されている世界に登場してはならない要素」「カメラで世界を切り取るときに意図的に排除される要素」と言い替えることができます。

 人は生きていく中でいろいろな物語に出会います。そしてそれらの物語の中で気に入ったものを自分の人生の物語の指標にします。たとえば小学生のころ、有名なプロ野球選手Aの自伝小説を読み、彼が子供のころに行っていた練習法を真似てみた経験がある人がいるかもしれません。これはまさに「プロ野球選手Aの人生と言う物語」をそのまま自分の人生の指標とした例です。当然、こんなに単純な例は少ないですが、誰しもがそれまでの人生で出会った物語たちの一部をつなぎ合わせて、あるいは共通する部分を取り出して、自分の人生の物語の指標とします。これを「固有物語」とでも名づけましょう。この固有物語の世界に想定されていない要素が飛び込んできたとき、その人の人生の物語化は失敗します。

  こう書くと物語化の失敗はなんだか絶望的な出来事のように感じられますが、決してそんなことはありません。仮に固有物語に非物語的な要素が舞い込んで物語化の失敗が起きても、その要素が消えてしまえば人生の再物語化は可能です。「嫌な思い出」として忘れ去ってしまったり、「痛い教訓」として無理やりその他の出来事との因果関係に取り込んでしまったりすればよいのです。

 

 

3.二種類のオタクの発生

  ここからは一般論をやめ焦点をオタクという人種に絞ります。オタクという人種を論ずるに当たってまず、オタクを大きく二つに分類します。第一のオタクが「人生の物語化に失敗していないオタク」(以下オタク1)。第二のオタクが「人生の物語化に失敗したオタク」(以下オタク2)です。オタク1とオタク2は通常区別されずに語られることが多いですが、僕は両者の間には絶対的な断絶があると考えます。それどころか、現代社会で生じているオタクたちの醜い争いはどれもこの断絶に起因するとすら考えています。以下では「物語化」の観点から二種類のオタクを慎重に考察し、場合によってはさらに細かな分類を与えていきます。 

 ではまず、オタク1について。先述の通り、オタク1は自身の人生の物語性を保ったままオタクの道に足を踏み入れた人々です。彼らの人生の物語は正常に展開し、その世界は純粋性を保っている。世界が純粋性を保ったままオタク化したということは、オタクコンテンツを「物語的な要素」と捉えて自身の世界に取り込んだと言うことです。すなわち、「自分の世界の中で、自分のカメラを用いて」オタクコンテンツを鑑賞している。一方で、オタク2はどうでしょう。人生の物語化に失敗したオタク2の世界はもはや純粋性を保っていない。目を背けたくなるような景色が広がっている。そこで彼らが目を背けた先がオタクコンテンツなのです。ここで、オタク2をさらに細分化します。ここで着目するのが「非物語化の発端の違い」です。まず第一に、自分以外が発端となり非物語化が起きた場合。つまり、物語化に失敗したものの自分自身の物語性は保っている場合です(これをオタク2aとでも呼びましょう)。こういうケースではオタク2aは自分の人生以外の物語の世界に自分自身を要素として取り込むことで人生の物語性を保とうとします。これは、「その物語の世界の中で、自分のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞しているといえます。まあ早い話、自分が主人公になったつもりであれこれ妄想したりするのがこれに当てはまります。では、非物語化の発端が自分であった場合(オタク2b)はどうでしょう。これが第二のケースなのですが、オタク2bはもはや「自分」という存在を完全に排除した状態で物語を鑑賞します。「出来合いの物語」を自分の人生の物語として代用してしまうのです。つまり、「その物語の世界の中で、その物語のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞するのです。

4.まとめ

  以上が僕が普段考えてることの概要です。僕は先の分類に倣えばオタク2bに該当するのでオタク1やオタク2aのことはイメージで書いていくしかなかったのですが、どうでしょうか。ここはおかしいんじゃないかみたいなところがあったらばんばん指摘してください。適宜訂正を加えますので。

  2017-02-26追記

約一年ぶりにこの記事を見直し、脱字が一箇所あったのと不要と思われる箇所が一箇所あったのを省きました。全体的に表現が稚拙でお恥ずかしい限りなので総書き直しをしたいくらいなのですが、初心を忘れない為にもあえてそのままの形で残すことにします。