kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

star!!からshine!!、そしてBEYOND THE STARLIGHTへ~少女たちは進化する~

 

   BEYOND THE STARLIGHTを初めて聴いた時の正直な感想は、「リズム感や雰囲気は好きだけど、何か心に訴えかけるものに欠けるなあ」でした。

   その理由はおそらくタイトルであるBEYOND THE STARLIGHTと曲中で繰り返される「TO BE A STAR」というフレーズの意図するところの違いがあまりハッキリしないように思えたためでしょう。

 

   THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 4thLIVE TriCastle Storyの神戸公演、「starlight castle」の全日程が終了した今、僕はハッキリと、そして、絶対の自信を持ってこう言うことができます。

「BEYOND THE STARLIGHTはstar!!shine!!の系譜として作られた非常にメッセージ性の強い楽曲であると同時に、アイドルマスターシンデレラガールズの楽曲の中で僕が最も好きな曲です。」

 

 

 

   たった数日で僕の中でのこの曲の位置づけがここまで大きく変わった直接の原因はstarlight casting1日目で1位に選ばれた城ヶ崎美嘉役の佳村はるかさんの思い、starlight casting2日目で1位に選ばれた星輝子役の松田颯水さんの涙を目の当たりにしたことでしょう。

二人のキャストさんの口から語られる「1位になること」が意味するもの、その大切さを聞き、そして2日間の公演の両方においてアンコール後最初の曲として歌われた「BEYOND THE STARLIGHT」を生で体験したことにより、僕の中で離散的に存在していた点と点とがめまぐるしい速さで繋がって行きました。

つい数分前、この感動を是非どこかに記録しておきたいと思い、急遽ブログとしてまとめる事に決めました。昨日の今日なので自分の中であたためる暇がなく、おそらく非常に読みづらいものとなってしまいますが、一人のオタクのメモ程度として参考程度に読んでいただければ幸いです。


   はじめに、僕がBEYOND THE STARLIGHTをstar!!shine!!の系譜として考えるようになった根拠をお話しします。

まずはそのタイトルですね。starlight、star、shine。どれも星や光を連想させます。

そしてその歌詞に見られる共通点、対称点の数々。ここでズラッと歌詞を並べたいところなのですが、著作権的な問題があるような気がするので(僕は法律関係には暗いのでよく知りませんが念のため)一部を引用するに留めます。皆様におかれましてはお手持ちのstar!!shine!!の歌詞カードを手にお読みいただければと思います。

   

   star!!は、アイドルとして活躍する友人たちの眩しさに気後れしながら、いつかは自分も活躍したいと夢見る少女の歌です。 

 

 

慣れないこのピンヒール

10cmの背伸びを 

誰か魔法で変えてください

ガラスの靴に

 

という歌詞や

 

私どうかな?イケてる?

祈るようなキモチ

 

そして、

 

カボチャの馬車はないけど

キミがここにいるなら

ねえ行けるよね?新しい世界

 

という歌詞はアイドルとして活動することに大きな不安を抱き、「キミ」(これはプロデューサーであり、ファンであると考えられます)に頼り、自分はアイドルとして輝いているか問いかける少女の姿を描いています。

 

   一方shine!!は、star!!においては眩しいだけの存在だった仲間に追いつき、そして「新たな光」の存在に気づくまでの軌跡を綴った歌です。

 

 

となりにいる仲間の瞳 煌めくDiamond

そして泣き笑い つながるスマイリング

そう 出会ったあの日も 眩しかった微笑み

だけど今見ている瞳は ねっ もっときらきら輝くよ

 

 

ではstar!!からどのようにしてshine!!へと辿り着いたのでしょうか。

この問いの答えはすべてアニメ アイドルマスターシンデレラガールズの中にあります。なんだその投げやりな回答は、と思われてしまうかもしれませんが、僕は大真面目です。

あのアニメは、島村卯月という一人の少女を通して「憧れ」からの「挫折」、そしてそれを乗り越えて「希望」を胸に新たなスタートを切るアイドルの姿を描き出した本当に本当に素晴らしい作品です。僕がアニメアイドルマスターシンデレラガールズの感想ブログを書かないのは、わざわざ僕が補わずともあのアニメの中にすべてが詰まっているからです。

   

   少し話が横道に逸れましたが、とにかくstar!!からshine!!へと続く一本の道は見えましたでしょうか。そしてここからが本題です。この一本の道の続き、shine!!で見つけた「新たな光」の正体こそが「BEYOND THE STARLIGHT」のなかに隠されているのです。

 

  以下ではライブで初公開となったBEYOND THE STARLIGHT二番の歌詞の考察も登場しますが、これはtwitterに掲載されていた「暫定版(複数の人が聴いた内容を擦り合わせて作られたもの)」を参考にさせていただきました。

 

   初めに語るべきは冒頭で触れた「BEYOND THE STARLIGHT」と「TO BE A STAR」についてでしょう。

まずはその準備を行いたいと思います。

皆さんは「star」という英単語の正確な意味をご存知でしょうか。googleで調べるとこのような答えが返ってきます。

 

star

 (staː) noun

  1. the fixed bodies in the sky, which are really distant suns. 
  2. any of the bodies in the sky appearing as points of light. 
  3. an object, shape or figure with a number of pointed rays, usually five or six, often 
  4. a leading actor or actress or other well-known performer eg in sport etc. a film/television star; a football star; (also adjective) 


 僕も調べてみてビックリしたのですが、starの第一義的な意味は「fixed bodies in the sky」、つまり空に浮かぶ恒星のことだけを指すものらしいです。(一応日本語でも星の意味を調べましたがやはり、狭義では恒星だけを指す場合があると書いてあります。)

 

このことも踏まえてBEYOND THE STARLIGHTの歌詞を見てみると、star!!shine!!と同系統のコンセプトでありながら、その言葉選びは前者二つとは一線を画していることがわかります。

まず、「光」という単語。star!!においてアイドルとしての活躍は、常に「輝く」と形容されていました。「光」はあくまで、遥か先にあるものであり、目指すべきものに過ぎません。shine!!においても仲間の瞳は「輝く」あるいは「煌く」ものであり、新たな「光」は、少女たちが「会いに行く」ものでした。

ところがBEYOND THE STARLIGHTにおいて「輝く」という表現は一切使われていません。代わりに使われているのが「光る」という動詞。この曲において光は、目指すものでも会いに行くものでもなく自ら放つものなのです。

そしてstar!!shine!!でたびたび登場する「キミ」あるいは「君」という単語もBEYOND THE STARLIGHT には一度たりとも登場しません。代わりにに幾度となく登場するのが「自分」という単語。

君がいるから輝いていた少女はいつしか「自分自身」で光ることを望むようになったのです。


以上を踏まえて、僕は一つの結論を導きました。その前に見ていただきたい画像があります。

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これらの画像はゲーム内で開催中のイベントのコミュの一部です。莉嘉のこの発言は僕が導いた結論を端的に表しています。以下、詳しく説明します。

   アイドルというのは、ファンやプロデューサーの承認のもと成り立っているのが常識です。アイドルマスターというゲームそのものがそういうコンセプトで作られていますし、ここら辺は以前僕が書いたブログ(オタクはなぜアイドルに惹かれるのか)でも少し触れています。そして、先ほど紹介したstar!!の歌詞にもこのことが読み取れます。「私どうかな?イケてる?」という少女の問いにプロデューサーやファンが答える。そうして初めて少女は自信を持てる。

少女は、ファンが持つサイリウムの光を反射して初めて「輝く」のです。

しかし、少女たちはこの一年、スターライトマスターシリーズとしてゲーム内でいつもとは違うメンバーとグループを組みステージをこなしていく中で新たな自分の可能性に気づき始めます。自分の中にある光──それはつまり、shine!!の時にはぼんやりとしたものでしかなかった「新たな光」の正体、自ら「光る」本来の意味での「STAR」です。

そう、BEYOND THE STARLIGHTは、ファンやプロデューサーの振るサイリウム(=承認)を反射して輝くSTAR LIGHTであることを超越し、自分自身の力で「光る」STARになろうという少女たちの決意を歌った歌なのです。

人間というものは普通、承認欲求を行動の第一原理にしがちです。誰かに認められるのは気持ちがいい。当たり前です。これは当然アイドルにも当てはまります。ファンやプロデューサーが喜んでくれるようなことをついやってしまう。ですが、それを続けていればいつかは自分を見失います。本当にしたいことは何であるかを忘れてしまう。

だからこそ、自分の力で光る必要があるのです。人に認められるためではなく自分が目指す自分になるためにアイドルとしての活動を行う。それはもちろん容易なことではないです。誰かに褒められればそれでよしとはいきません。誰が見ても納得せざるを得ないような証拠が必要になります。only one ではなくnumber one にならなければならない。BEYOND THE STARLIGHTの歌詞からはそんな強い覚悟を感じます。

では、自分だけの力で頂点を目指すBEYOND THE STARLIGHT において仲間は、どんな存在なのでしょう。

 

ぶつかって 火花が散って星座になって

永遠に語り継がれる 僕らのファンタジー

 

これは、二番の歌詞です。そして

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これは先述のコミュにおける奈緒の発言の一部。ネットでも話題になっていましたね。

star!!では自分の前を走り、shine!!では共に走る存在であった仲間は、BEYOND THE STARLIGHTにおいては切磋琢磨するライバルとなるのです。友情というのはどんな状況下でもそれぞれ違った美しさを見せるんですね...

 

 

 

 

BEYOND THE STARLIGHTには「ゴールのない世界」「答えのない世界」という歌詞が登場します。これはもちろん、アイドルの世界です。アイドルに正解はないし、だからこそ完成系もない。少女たちはガムシャラに突き進む他ありません。しかしだからこそ、無限の「夢がある」。

時には目標に、時には支えに、時にはライバルになる仲間たちと共に、少女はどこまで羽ば­たいていくのでしょうか。もう、僕たちには全く予想ができません。

ただひとつわかるのは、さいたまスーパーアリーナでの4thライブ、そしてその先の未来において彼女たちは、まだ僕たちが見たこともない綺麗な色で「光る」であろう、ということだけです。(完)

Tokyo 7th シスターズ 2nd Live 16'→30'→34' -INTO THE 2ND GEAR- を見ることができて僕は本当に幸せでした。(ライブ感想)

2016.8.21、Tokyo 7th シスターズ 2nd Live 16'→30'→34' -INTO THE 2ND GEAR-当日。

 時を同じくして3つの台風が日本列島に接近するという異例の事態の中、僕の頭上には突き抜けるように青い空が広がっていた。
 あの朝僕は友人達と待ち合わせ、開演時間まで物販購入をしたり他愛もない話をしたり海を眺めたりして開場時間を待っていました。開場後30分ほど経った頃に会場入りし、席に着き一息。大好きなtokyo 7th シスターズのライブということで軽い緊張はありましたが、2次元アイドルのライブは初めてではないのでその緊張感を楽しむ程度の余裕もありました。
そして予定の1時を少し過ぎた頃、場内に流れるマナ嬢の声。会場がどよめく。いよいよ開演です。黒と赤を基調としたデザインのオープニングムービーを見て僕は、一曲目はセブンスシスターズの曲であることを確信しました。ニコとミトの掛け合いもMCの延長だと思い込んでいたし、この後イントロが流れニコの「Are You Ready 7th-TYPES??」の声とともにSEVENTH HAVENが始まる、こんなシナリオを瞬時に脳内で組み上げていました。全部、予想通りに事が運んでいるつもりになっていました。
しかし、です。
刹那、不気味なほどに静まり返った会場内にその声は響きました。
「──ギアを上げろ、2ndLIVEだ」
爆音で流れるSEVENTH HAVENのイントロ。鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃が走り、心臓のあたりを発端として手や足の指の先まで左半身全体に謎の痺れが広がり、呼吸は荒れ、目の前がチカチカする。止まっていると全身に流れ込み反響し干渉し強め合うビートに体の内側から皮膚を食い破られそうな幻想に取り憑かれ、一心不乱に躍り狂う。僕は2次元アイドルのライブに来ていた事実の一切を忘却し、ただただ目の前で起きる「事件」に翻弄され、蹂躙され、それでも目を離せずにいました。もう無茶苦茶です。
この瞬間、僕の中のstereotypeな偶像(アイドル)の姿は木っ端微塵に打ち砕かれました。
 

 まず、衣装が常識破りです。アイドルグループは普通、お揃いか、あるいは色違い、同系統であるが一部デザイン違いの服を着る。調和、あるいは階調がアイドルの常識なのです。しかし、セブンスは違う。それぞれが、思い思いの服を着ている。そこに同調は無く、配慮は無く、強烈な″個″は溶け合わず、混ざり合わない。セブンスシスターズという集団の中で、巨大な存在感を放ち続けている。
そして、曲。挑発的なBGMに乗って撃ち出される破壊、創造、破壊、創造………破壊と創造の歌を歌うアイドルなんて、一体どこにいるでしょうか。
だがそれが、それら全てが、気絶するほど「かっこいい」。これはあの時の僕の素直な気持ちであり、同時にあそこにいた人々全員の素直な気持ちであったと思います。
 そんな、会場全体がセブンスに魅了されたまさにそのタイミングで777☆SISTERSが登場し、KILL☆ER☆TUNE☆Rのイントロが流れます。MCで仕切り直したり、自己紹介を挟んだり、セブンス登場の「衝撃」を和らげる方法はいくらでもあったんです。なのに、それをしなかった。セブンスが偶像をぶっ壊したその直後にあえて、777☆SISTERSが持つ一番の王道アイドルソングを入れてきた。並々ならぬ覚悟を感じました。それは、Tokyo 7th シスターズ 2nd Live 16'→30'→34' -INTO THE 2ND GEAR-を予定調和の枠組みに入れないという覚悟、そして、アイドルが徹底的に破壊され尽くした2034年に「アイドル」の名を掲げて活動を行う777☆SISTERSの覚悟です。
もう本当に、仰向けに倒れそうになりました。
予定調和をぶち壊すセブンスの新曲2曲、そして777☆SISTERSの覚悟を見せる王道アイドルソング2曲。開幕早々すべての常識を置き去りにする加速に僕の喉はヒリヒリと焼けつき、全身から汗が噴き出しました。たった4曲、たった十数分の「加速」で会場内の時計は一気に16'→30'→34'を駆け抜けました。これが「2nd GEAR」です。これが「Tokyo 7th シスターズ 」です。



  そうしてやっと、777☆SISTERSの自己紹介が始まります。自己紹介、良かったですよね。個人的には今井麻夏さんのダジャレとか桑原由気さんの自己紹介の時にお姉ちゃんたちが邪魔?するのとかが好きです。あと高田憂希さん演じるムスビちゃんの「私も成長してるんです」というセリフにEpisode 2.5を思い出してヴォイしたり加隈亜衣さん演じる角森ロナちゃんの自己紹介にヴォイしたり(語彙貧困)、ゲーム内でのキャラクターの文脈にもしっかりと配慮された構成に感銘を受けました。ここら辺はBDを買ってもう一度じっくり見たいなあ。
そんなこんなでメンバー自己紹介も終わり、皆がホッと一息ついた瞬間、突如鳴り響くブザーとスクリーンの警告表示。バトライブでよくあるやつだ!とはしゃぐのもつかの間、KARAKURIによるステージ乗っ取り発生。
一曲目は新曲の-Zero。いや〜、カッコ良い!!カッコ良いのに可愛い!皆さん「窮鼠だったり猫だったり」の部分の振り付け見ましたか!?そして何と言っても秋奈さん本人の可愛さ!「ヒトフタちゃんはまだ13歳なんですけど、あ、いや、私は20歳なんですけど」って!!!知るかよ!!!!ってか同い年かよ!!!!可愛いよ!!!
リアルタイムで自分が何を言ったか記憶が曖昧なのですが、どうやら僕、連番のオタクに物凄い剣幕で「可愛すぎるだろ!!!」とがなり立ててたみたいで、混乱した彼に「なにキレてんだよ……」と言われてしまいました。(ゴメン)
 そんなポンコツ自己紹介で緩みきった会場に突き刺さるB.A.A.B。自己紹介からB.A.A.Bへと移る際に秋奈さんの「スイッチ」が入る瞬間、本当に鳥肌が立ちました。やっぱりどうしようも無く「プロ」なんですよね…
ヒトフタちゃんの乱入後はお待ちかねのユニット新曲披露。衣装も新曲仕様でバッチリキマっています。You Can't Winの「BQN!!」でお猿さんになったり、ラバ×ラバの「Oh Yes!〜」のコーラス部分でアメリカ人になったり(?)、セカイのヒミツの高井舞香さんの「『※※』答えは内緒にしといて」からの投げキッスでカエルの断末魔みたいな悲鳴を上げたり、さよならレイニーレイディーに引き込まれすぎて完全に棒立ちになったり、とにかくとにかく楽しかった!(こうやって文章にすると本当に気持ち悪いですね)
やはり、ユニット曲あってのtokyo 7th シスターズなんですよね。キャラクターの個性を丁寧に丁寧に拾って、そのキャラクターにしか出せない味を存分に引き出す。tokyo 7th シスターズの楽曲が群を抜いて素晴らしいことを再認識させられました。
そしてそしてお次はSiSHとサンボンリボンのMC。恒例の「回って〜」もあり(サンボンの謎の回り方は本当になんだったんでしょう)、ホッと一息。今まで死なないために飲んでたアクエリアスを味わうくらいの余裕はできました。
ところが、キャストさんにより「新しいナナスタシスターズ」への言及が。そうです、待ちに待ったLe☆S☆Caです。僕はデビュー当時からLe☆S☆Caが大好きで、コンプティークに連載されているEpisode Le☆S☆Caも読み、UY(黄色いケミカルライトです)まで用意してこの瞬間を待っていました。だからこそ、Le☆S☆Ca登場が告げられたときは興奮とともに口から心臓が飛び出しそうになるほど緊張しました。初めてのステージは上手くいくだろうか。会場はしっかり盛り上がるだろうか。不安と緊張がボコボコと音を立てて次から次へと湧き上がります。
SiSHとサンボンのキャストさんが捌け、ステージに黄色いライトが点灯し、そして───僕の胸いっぱいに沸いた不安や緊張は、まるでレモンスカッシュの微炭酸のように、シュワシュワと音を立てて消えました。
 本当に、本当に素晴らしいステージでした。
藤田茜さんのハリのある耳に心地良い歌声、植田ひかるさんの上質な羽毛のように聴衆を包み込むふんわりとした優しい歌声、そして、吉井彩実さんの三千世界を流れる川より静かに澄んだあの歌声。ダンスも文句なしに素晴らしかった。
もうこの時点で僕の目は真っ赤に腫れ上がっていたのですが、トドメを刺したのは二番サビ前の「跳ぶよ!」です。もともとはライブステージにおける荒木レナのスキル発動時のボイスで、Episode Le☆S☆Caのクライマックスシーンでレナが口にしたこの言葉が、Le☆S☆Caの初登場ライブで、サビ前で、、もう、、
yellow二番サビの「長く助走をつけた方が高くに届くわ」という歌詞はまさにLe☆S☆Caを表しているというのは友人のオタクの受け売りなのですが、むべなるかな、他のSISTERSより一年と三ヶ月長く助走をつけたLe☆S☆Caのメンバーは初ライブでこれ以上になく高い跳躍を見せたのです。
僕も、連番のオタクも、ビックリするくらい泣いてしまいました。ありがとうLe☆S☆Ca。本当にありがとう。
 続くBehind Moonも、非の打ち所がない出来栄えでした。yellowと打って変わって少し大人びたこの曲は、メンバーの歌声しかりダンスしかり、実に妖艶でカッコイイ仕上がりとなっています。僕は特に、中腰で左腕を突き上げて右腕で支えて踊るダンス(知識がないのでこんなアホみたいな表現をするしかないです、すいません)(伝わることを願っています)がカッコよくて大好きです。藤田茜さんは、ステージに立つこと自体初めてだと仰っていましたが、そんなことは微塵も感じさせない完璧なダンスでした。凄いです。逸材です。大好きです。
 そしてお次はユニット既存曲メドレー。ウィッチ→ニコラ→シス→サンボンとファーストシングルのショートバージョンを披露した後、今度は逆向きの順番でセカンドシングルを披露(こちらはフル)。これ、すごく意味があるんですよね。つまり二公演に分けたものの各公演で全曲を演ることがここで確定したわけですよ。1stと比べて(他の2次元アイドルライブと比べても有意に)キャストさんのトークタイムを削ってまで一つの公演に全曲を詰め込んだ理由はなんでしょうか。
僕はこう考えます。1stライブは「お披露目」の意味が強かった。まだゲームすら始めたことのないファンも多い中、「tokyo 7th シスターズというのはこんな感じなんですよ、楽しいですよ」ということを知らしめる目的で作られていたわけです。しかし、それから一年以上経ち、ある程度長い期間やってるユーザーも増え、と同時に新規ユーザーもかなり増えて一層の盛り上がりを見せ始めた。これからメディア展開等の新しい動きも増えていくというこの時期に、いま現在の「tokyo 7th シスターズ」の姿を少しでも多くの人に「すべて」見せ、「これからどんどん速度を上げるtokyo 7th シスターズに本当についてこられるか?」とある種挑発的なパフォーマンスを行ったのが2ndライブだというわけです。まあこれはオタクの妄言に過ぎないのでそこまで本気で受け止めて貰わなくて結構ですが、少なくとも僕は、以上のように考えています。そして、この「挑発」は大成功を収めたとも。
 既存ユニット曲披露の後はウィッチとニコラのキャスト挨拶。ニコラの二人のジャージ、めちゃくちゃ可愛かったです。
そうして再び一息つけるかと思ったその時、舞台裏から聞こえる不敵な笑い声。自慢じゃないのですが、(自慢ですが、)僕はこの笑い声が聞こえて0.1秒で声の主を特定しUOを準備しました。いや、自慢じゃないのですが。(自慢です。)
4Uです。満を持して4Uが登場したのです。
舞台中央の階段がぱかっと割れて、ハロウィン衣装の4Uが登場したときは、多分生まれた時より大きな声で叫びました。
まず演出が圧巻ですよね。僕はオタクなのでオタクライブしか行ったことがないのですが、ロックバンドのライブでステージ後方のでかいバックライトがカッ!と光って客席を照らす、みたいな演出はテレビやなんかで見て知っていました。だからサビ部分でバックライトがカッ!となった時は「すげえ!ロックバンドのライブだ!!」と異様に興奮してオタクのくせに人差し指を空に突き立ててちょっとそれっぽいことをしたりしてしまいました。
セブンスシスターズが内部からアイドルを破壊する存在だとすると、4Uは外部からアイドルを
脅かす存在なんですよね。だから4Uもアイドルと違ってそれぞれ趣向の違う服を着ています。それがまたカッコよくて可愛い。そして何より初登場の山下まみさんのパフォーマンス…
Le☆S☆Caしろ、なぜ皆初登場の舞台であそこまでのパフォーマンスをできるのでしょう。あの笑顔の陰でどれだけ努力をしたのでしょう。本当に、凄い。他の誰にもできないことを、彼女たちだからこそ、成し遂げることができた。そんな彼女たちの舞台を見ることができた僕は、本当に幸せ者です。
ワタシ・愛・forU!!で指を天に突き上げ、TREAT OR TREAT?でお猿さんになり、Hello…my friendでグチャグチャに泣いた(この3曲で持っていたUOの大半を折った)僕の前に現れた次のアイドルは、はる☆ジカ(ちいさな)。Oh my!やよっしゃあ!やfu-fu-fuwafuwaで盛り上がりに盛り上がったわけですが、今になって思うのは「一曲増やす」ことの負担は一体どれほどのものだろうということです。篠田みなみさんも高井舞香さんも777☆SISTERSとしての全体曲が6曲、そしてユニット曲が3曲あるわけです。そこからさらにはる☆ジカ(ちいさな)としての曲を一曲増やす。並大抵のことではないと思います。もう何度も言っている気がしますが、どれだけの努力をなさったのでしょう…
ハネ☆る!!の終わりとともに今度はSnow in "I love you"が始まります。ここら辺の演出も非常に作り込まれているんですよね。サビではみんなでfu-!!と叫ぶお決まりの演出もあり大盛り上がりのSnow in "I love you"が終わるとすぐに流れるH-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!のイントロ。2nd Live用に少しだけ演出が加えられたイントロも素敵でした。
なんかもう既に相当な字数書いていてここまで読んでくれている人が果たしているのかどうか不安なので詳しい話はまた今度にしますが、H-A-J-I-M-A-R-I-U-T-A-!!の歌詞も凄いんですよね。アイドル無き世界で「アイドル」を始める少女たちの覚悟と希望を歌った歌詞がね、ヴォイ(泣)
お次はSparkle☆Time! 
これはもう文句なしに楽しい曲ですね。手が腫れ上がるくらいクラップしまくりました。クラップしすぎて3回くらいバンクルが吹き飛びました。
で、Sparkle☆Time!が終わりセブンスのキャスト挨拶。なんかもう渕上舞さんの笑顔しか覚えてませんが、(これは嘘です)とにかく滞りなく進行、していたと思います。「思います」というのは、ここら辺からの記憶が曖昧なんです。(これは本当です) それもこれも全部、その突然告知された数々の特報の所為…
特報が来ること自体はわかっていました。だからもちろん覚悟はしていました。足を突っ張って重心を低くしてプロボクサーに殴られても耐えるくらいの気持ちで画面を見つめていました。
それなのに、次の瞬間僕は座席に座り込んでいました。いやもう、3rdライブの告知がトドメになったのかQoPの新曲告知がトドメになったのかver.4.0始動がトドメになったのかは今となってはわからないです。ただ一つわかるのは、僕はあの瞬間、人生で初めて「腰を抜かし
」ました。いやもうね、立てないんですよ。足がガクガクして全然力が入らない。その上涙が溢れてくるんです。今までもアニメやそれこそtokyo 7th シスターズのエピソードを見てジーンと来たことは何度かあったのですが、あの日の僕の涙はレベルが違いました。もうね、声が出ちゃうんですよ。「うぇっうぇっ」って。20歳の男がですよ?腰を抜かしながらですよ?「うぇっうぇっ」ですよ?ただごとじゃありませんよ。そんな僕を尻目にステージではStar☆Glitterが始まるわけですよ。もうね、無理。ふらふら立ち上がったはいいものの左手でタオルを顔に当て右手を天に突き上げてしゃくりあげながらガタガタの音程で合唱する最悪のオタクになっちゃうのもしょうがないですよ。
曲が終わる頃には流石の僕も成人の意地を見せて何度か泣き止んだんですけどね、まあ案の定次はFUNBARE☆RUNNERが始まるんですよ。(キャストさんの挨拶とかありましたっけ?すいません、本当に記憶が曖昧でちょっとわからないです。昼夜二回参加したのにどっちも同じリアクションを取ってしまって結局最後まで曖昧なままでした。BDを待ちます。)
FUNBARE☆RUNNERは楽しい曲なのでね、僕も楽しく踊るわけですよ。ビチョビチョに泣いてるけど。それなのにね、あのバトンをつなぐダンスですよ。もうね、「お前〜〜〜〜〜〜っっ!!!!」って誰に向けてるのかも不明で怒りなのか喜びなのかも不明な謎のセリフをぶちまけながらまた大号泣ですよ。
勘違いして欲しくないのですが、僕は物心ついてからライブ前日まで記憶にある限りは一度もあんな風に泣いたことないんです。感動したり悲しくてジーンと来ることはあっても漫画のような大粒の涙は出なかったんですよ。眼科でドライアイの診断を受けた後は「ドライアイだから涙が出ねぇのかな」などと意味不明な納得の仕方をしていたわけですよ。
関係無かったです。ドライアイ、全然関係ないです。死ぬほど涙出ました。
でね、まあこの時はビービー泣いてはいたけど一応棒は握ってたしコール等入れたり歌詞を口ずさんだりしてたんですよ。FUNBARE☆RUNNERが終わって僕らは青空になるが流れるでしょ?また座り込みました。もう泣きすぎて立てないんですよ。周りの人間皆立って棒振ってる中僕一人座り込んで泣いてるんですよ。「うぇっうぇっ」とかじゃないです、「おんぉおお!おんぉおお!」です。もう歌詞の一言一言が心を揺さぶりに揺さぶって、声優さんの努力、演出に関わるスタッフさんの、そしてパンフレットにも書いてあった茂木総監督の思いが伝わるんですよ。今ね、千葉の田舎を高速バスで移動しながらこのブログ書いてるんですけどね、なんとまた泣いてます。涙がポロポロ出てきます。いつからこんなに泣き虫になってしまったんでしょうかね。

  かくして、Tokyo 7th シスターズ 2nd Live 16'→30'→34' -INTO THE 2ND GEAR-は幕を閉じました。本当に嵐のようなライブでした。僕はもちろん、周りにもちらほら放心して立ち上がれないお客さんがいました。何度かアイドルライブに行った僕でも初めて見る光景でした。それほどまでに、大成功だった。tokyo 7th シスターズを信じた僕らは、正しかった。

2016.8.21の晴れた空と雲は、生涯僕の脳裏に焼き付いて離れないあの青は、もしかしたら知っていたのかもしれませんね。


アイドルとは、青空であるということを。

立体的日常系論~サザエさん時空からゆゆ式時空へ~

春ですね。kramijaです。毎年春になると思い出すのが、2013年春に放映したアニメ「ゆゆ式」です。と言うことで今回はアニメゆゆ式の話をします。(以上、導入終わり。)

 正確には「一般的な日常系アニメというのはどういうもので、アニメゆゆ式はどういう点で新しく、その新しさが意味するところとはいったい何なのか」という話をするのでアニメゆゆ式を視聴していない読者の方でも楽しめると思います。というか実を言うと僕もゆゆ式はアニメしか見たことがなく、コアなファンとは言えないのでコンテンツに突っ込んだ話はあまりできないので安心してください。ではやっていきましょう。

 

1.日常系の発生経緯

  まずは一般的な日常系アニメの話から。日常系というワードをインターネットで検索してみると、「劇的なストーリー展開を極力排除した、登場人物たちが淡々と日常を送るもの(ニコニコ大百科より引用)」等の当たり障りの無い説明が出てきます。Wikipediaなんかで検索するともっと長々とその歴史や定義を語ってくれるので面白いです。面白いですが、長いです。長い上に不正確です。不正確というのはどういうことかと言いますと、どのサイトでも日常系を特徴づける性質として「物語性が希薄であること」「因果関係が存在しないこと」を挙げているんですよね。これは明らかな誤認識ではないでしょうか。僕はむしろ日常系ほど因果関係が明確な世界設定は無いと考えています。例えば、いわゆる「爆発オチ」のコマあとそのキャラが何事も無かったように振舞う姿などを取り出して「因果関係を放棄している」などと評価したのでしょうが、これは非本質的かつ一面的な見解であると僕は考えます。なぜなら、日常系の根幹を成す本質的な要素はキャラ同士の掛け合いで、その掛け合いは非常に整然とした因果関係で成り立っているのです。あるキャラが喜ぶとき、すべての読者はその原因を一意に定めることができる。悲しむ時、怒る時も同様です。誰もがその理由をはっきりと述べることができる。これはひとえに物語が明確かつ短距離の因果関係で紡がれているためです。よって、日常系を「非物語的である」と評するのは大きな間違いです。「本質的な物語性を追求した結果非本質的な部分の因果関係が不明瞭になった」と書く方がよほど正確です。そして話を元に戻しますと、この感情の明確かつ短距離の因果関係こそファンが日常系作品に求めることなのです。現代を生きるオタクの皆さんは往々にしてコミュニケーションが不得意です。現実世界で他者の感情の機微が読み取れず苦労すると言う経験が日常茶飯事であり、複雑かつ長距離の因果関係に嫌気が差し、それ故日常系という平面的なコミュニケーションに惹かれる。今回はアニメの話なのでオタクの話には深入りしませんが、とにかくこういう経緯で日常系ブームが発生したのではないかと僕は考えています。(Wikipediaさんやニコニコ大百科さんには全然違うことが書いてあるので皆さまにおかれましては自ら理性を働かせてどちらが正しいか判断してください。)

 

2.一般的な日常系の手法

  では次に一般的な日常系がどのような手法で明確かつ短距離の因果関係を実現しているかを考えていきましょう。そもそも、明確かつ短距離の因果関係は弱い感情のもとでしか成立しません。強い感情は一朝一夕で構築されるものではなく、その発生には必ずや複雑に入り組んだ因果関係が必要となります。つまり、強い感情を入れようとすると否応なく物語の因果関係は複雑かつ長距離となるのです。それ故、日常系は強い感情を排除する。では、強い感情を入れないためにはいったいどんな手法を用いればよいのか。それはズバリ、「世界を平面的に構成すること」ではないかと僕は考えています。一般的な日常系アニメはいわゆる「サザエさん時空」で展開されますね。これは我々の住む現実世界から時間軸を取り去り次元をひとつ下げたある種平面的な時空です(ある区間内での時間の流れは存在するので時間の不可逆性を取り去ったと形容したほうが正確ですが)。このサザエさん時空においては時間の不可逆性がもたらすさまざまなイベントが発生せず、それに従い強い感情も排除されます。同時に、精神的変化や成長が存在しないためキャラの性格も平面的になり、この「平面化」により一人のキャラに様々な属性を背負わせることが難しくなった結果、新たな属性を導入するたびにキャラを増やす必要があります。一般的な日常系アニメの登場キャラ数が多い理由はこう説明すると筋が通りますね。

 ここでひとつ補足を。僕は普段twitterなどでも弱い感情・強い感情と言う単語を使ってしまうのですが、今回登場した弱い感情、強い感情と言う区別は僕が普段用いているものとは異なります。僕が百合等を論じる時に用いる感情の強弱は相対的なもので、具体的に言うと性衝動などの本能的な感情を強い感情、それ以外のものを弱い感情としています。しかし今回扱っている感情の強弱は絶対的なものです。弱い怒りや弱い喜び、弱い悲しみを弱い感情と表現しました。紛らわしくてすみません。

 

3.アニメゆゆ式の登場

  さて、「平面化」が明確かつ短距離の因果関係構築のための便利な手法であることはお分かりいただけたかと思います。では、平面化は日常系であるための必要条件なのでしょうか?平面化無くして日常系は成り立たないのでしょうか?この問いに対する答えがアニメゆゆ式です。ゆゆ式は縁、ゆずこ、唯という従来の日常系的(=平面的)関係で結ばれた少女たちを時間の不可逆性が存在する時空にどれだけ整合性を保ったまま入れられるかというある種実験的な試みとしての側面を持っていたのではないかと僕は考えています。それは、主要キャラ三人だけ髪の色が古典的日常系色で、それ以外の人間は全員常識的な色をしていることからも伺えます。三人は平面から「抜き出され」て、立体の中に「入れられ」たのです。そして、結論から言えばその実験は成功しました。平面化は日常系のための必要条件ではなくただの便利な手法の一つに過ぎなかったのです。以下では、日常系を立体的に展開することにより具体的にはどのような点に変化が起き、どのような点には変化が起きなかったのかを作中でのエピソードを交えながら考察していきたいです。考察していきたいのは山々なのですが、最近やっと気づいたことがあって、文字だけのブログを8000字くらい書いても誰にも読んでもらえないんですよね(とても悲しい)。そこで今回はごくごく簡潔にその実験の結果を述べます。

 時間が不可逆に進行する時空に閉じ込められた三人は、その不可逆性ゆえほかの日常系作品では見られない関係性を構築します。その性格は立体的な構造を成し、たとえばゆずこは「成績優秀でありめがねキャラでもありながら基本はボケ担当のお調子者」という普通の日常系の三人分くらいの人格を一身に引き受けています。また、彼女たちの人間関係も同様に立体感を獲得します。例えば相川さんと三人の関係は物語初頭と終盤でまったく異なるものとなっています。これは、固定された時間軸で展開される平面的な人間関係では絶対に実現不可能な現象です。また、第五話「唯と縁 とゆずこ」に見られる三人の絶妙な距離関係も時間軸の存在により実現されました。一般的な日常系にも幼馴染は登場するのですが、それはあくまで属性のひとつに過ぎず、時間的な立体感が効いてくることはありませんでした。幼馴染であれ中学から知り合った友人であれその心理的距離は等距離であると言うのが今までの常識だったのです。しかし、ゆゆ式五話はこの常識を打ち破りました。そして極めつけは彼女たちが死を認知していると言う事実。三人の少女たちはそこから目を背けずにしっかりと向き合っている。時間の不可逆性を入れればそこに死の概念が入り込むのはまあ自然なことと言うか避けられない展開なのですが、これをわざわざ作中で取り上げたのが三上先生のすごいところです。当たり前ですがこれも従来の日常系では絶対に実現し得ない話です。とまあ語りだすとキリが無いのですが、ともかくここで重要なことは、人間性、人間関係、世界観が立体的な構造を成した状態でも弱い感情による明確で短距離の因果関係は成り立っている、と言うことです。これは本編を見ていただければわかるのですが、ゆゆ式は明らかに日常系です。一切の強い感情が存在しない。これは明らかに先述の実験の成功を意味しています。ゆゆ式は「立体的な時空においても日常系は展開し、それどころか従来の日常系には成しえなかった様々な奥深さを獲得することができる」ことを示したのです。そう、アニメゆゆ式という実験の成功により日常系はサザエさん時空のみならずひとつ次元が上のゆゆ式時空上でも成り立つのだということが証明されたわけです。すごいぞゆゆ式。ありがとうゆゆ式

 

4.おわりに

本当はこの十倍くらい語りたいのですが今回はここで切り上げます。気が向いたらこの記事を既知としたゆゆ式考察8000字みたいなのを書くかもしれないです。そのときはまたよろしくお願いします。それでは。

響け!ユーフォニアム考察〜あの日、黄前久美子は高坂麗奈の中に何を見たのか〜

 

しばらくぶりです。kramijaです。今回は予告どおり2015年春クールに放映されたアニメ、「響け!ユーフォニアム」の考察を行いたいと思います。読者はこのアニメを視聴済みであることを前提に進めるのであしからず。(なんかこのへん「響けユーフォニアムとは~」みたいな感じでwikipedia引用したりして二期の話とか劇場版の話とか原作の話とかもうちょっとちゃんとやったほうがいいのかも知れないんですけどめんどうくさいのでやりません。許してね。)

 では前置きをすっ飛ばしてさっそく本題に入りたいのですが、まず先にこの考察の目的と言うか概要を述べておきます。この考察は「黄前久美子にとっての高坂麗奈(あるいは高坂麗奈にとっての黄前久美子)はいったいどんな存在なのか、そして二人が出会ったことで久美子の人格はどのような変化を起こすのか」を僕が定めた作中での重要イベント1~4に着目することで読み解くことを目的としています。形式としては各章でまずイベントの説明を行い、その後そのイベントによって起きたと考えられる久美子や麗奈の行動の変化が見られるシーンを箇条書きで解説していきます。では、始めましょう。

0.高坂麗奈と出会う前の黄前久美子という人物について

 響け!ユーフォニアムのアニメ第一期は黄前久美子が高校一年の春に北宇治高校に入学してから夏のコンクールで金賞を取るまでの軌跡を時系列順に追う構成になっていますが、その間たびたび久美子の過去の回想シーンが登場し高坂麗奈と出会う前の久美子の人格を推定する手がかりとなります。この考察の主眼である「高坂麗奈という人物との邂逅が黄前久美子にもたらした人格の革命的な変化」を論じるに当たってその変化以前の黄前久美子像を固めておくのは非常に大切なことだと言えるので、第0章では作中の回想シーンに何度も登場することから久美子の人格形成にとって重要な意味を持っていると考えられる二つの出来事をもとに初期の久美子についての考察を慎重かつ丁寧に議論を進めます。(久美子と麗奈は同じ中学校に通っていたので二人の出会いは厳密には中学入学時にまでさかのぼるのですが、今回は物語的な面から見た二人の接触、すなわち黄前久美子の「カメラ」に高坂麗奈が初めて映った中学三年生のときのコンクール(イベント1)を二人の出会いの定義とします。)

 その重要な二つの出来事とは、①久美子の目標であった姉の麻美子が大学受験を理由に吹奏楽をやめてしまった②中学一年の夏、先輩から「A(おそらく実力順にチーム分けが為されていてAは一番上のチームであると考えられる)になったからってバカにしているのか」と強い口調で責められた ことです。

 ①、②の出来事を通して久美子は「ユーフォニアムを上手く吹けるようになりたい」「吹奏楽を続けたい」という意志を貫けば必ず受験や先輩との軋轢という壁が待ち受けていることを思い知りました。そして、もともと持ち合わせた意志の弱さ(これは例えば楽器を始めるときにほかに志願者がいなかったことからユーフォニアムを選んだことなどからわかるように久美子の特徴的な性格です)もあいまってそれらの壁に対して自分なりの答えを見つけることができず「一生懸命続けてもどうせやめるときが来るしいろいろな不都合が生じるのだから程々でいい」という考えを持つようになったと考えられます。フロイト精神分析学用語を借りれば合理化(すっぱい葡萄の話のアレです)をしたとも言えますね。そうして何をするにもどこか冷めた態度で臨むやれやれ系?主人公黄前久美子が完成しました。しかし、ここで注意されたいのはこれらの性格は行く末に待ち受ける壁を越えるほどの意志力がなかったがためにでっち上げたその場しのぎのものであり、久美子の本心とはまったく異なります。これについてはすぐ後の第一章で詳しく説明します。

 

1.中学三年時のコンクール(イベント1)

 0章で述べたように努めて「一生懸命になること」「夢中になること」を避けるように生きてきた黄前久美子ですが、中学三年の時、ある衝撃的なシーンに遭遇します。それは中学三年のときの吹奏楽コンクールでの出来事。以下作中でのやり取りをそのまま抜き出します。

「高坂さん、泣くほど嬉しかったんだ...良かったね、金で」「くやしい。くやしくて死にそう!何でみんなダメ金なんかで喜べるの!私ら全国目指してたんじゃないの!?」

「え...本気で全国いけると思ってたの?」「あんたはくやしくないわけ?私はくやしい。めちゃくちゃくやしい!」

 このやり取りこそが、黄前久美子高坂麗奈両名にとって運命的なものとなりました。以下、その理由を説明します。まず、久美子。本気で全国を目指していた高坂麗奈に呆れてつい口をついて出てしまったはずの言葉が、あろう事か「自分自身に」突き刺さってしまいます。そう、あの日、あの時、高坂麗奈と同様に黄前久美子もまた、全国にいけなかったことが悔しかった。徹底的な合理化により隠し続けていた「内なる黄前久美子」は、実は全国に行きたかった。そうです、高坂麗奈黄前久美子の隠された本心を体現した存在だったのです。そして次に、高坂麗奈。作中での振舞いを分析すると、高坂麗奈黄前久美子と正反対の人格形成をしてきたと推察できます。つまり、高坂麗奈は高くそびえる壁を見て「越えられるはずがない」と冷静な判断を下す自分の声に耳をふさいで壁に向かって突進するタイプの人間なんです。今回のコンクールもそうだったと思います。彼女だって、心のどこかでは全国にいけないことをわかっていた。そんな自分から目をそらしていた。そこを黄前久美子に指摘された。熱くなることで耳をふさいできた「内なる高坂麗奈」の声が、あろうことか黄前久美子の口から飛び出した。正反対の人格形成をしてきた二人が、互いの中に内なる自分の影を見る。これは、実に運命的な出来事です。イベント1には実は、このような意味があったと僕は考えています。これは、かなり確信を持って言えます。

・一話、久美子が進学先に北宇治を選んだ理由

 高坂麗奈の中に本当の自分を感じた黄前久美子は、大きな恐怖を感じたはずです。高坂麗奈が感情をむき出しにして泣く姿は、傷つかないために合理化までして守ってきた本当の自分が傷つく姿に他ならないのですから。だから黄前久美子高坂麗奈を避けるようになった。それゆえ、進学する高校も地元から離れた北宇治を選んだのだと思います。久美子本人は北宇治進学の理由を「いろんなことを一度リセットしたかったから」と述べていますが、これは合理化に過ぎないと思います。合理化というか、無自覚ですね。イベント1で非常に強い衝撃を受けたものの、まだ本当の自分=高坂麗奈という等式をはっきりとは自覚していないんです。だからこそ、理由のわからないもやもやに悩まされる。なぜだかわからないけど、高坂麗奈の近くにいると落ち着かない。だから麗奈とは違う学校でリセットしようという気持ちになったんです。

・一話、久美子が吹部の演奏を初めて聞くシーン

 もちろん高坂麗奈が進学するであろう全国大会出場常連校を避けて北宇治に進学したのだからある程度は覚悟していたんでしょうが、それでも久美子は北宇治高校吹奏楽部の演奏の下手さにショックを受けます。こういうシーンからも、本当は全国に行きたい黄前久美子の本心が伺えます。

・一話、吹奏楽部の演奏を聞き教室に戻った久美子の独白(本当は加藤葉月に聞かれていたので独白ではないのかもしれないですが)

 「下手すぎる!」と憤ったあとで「でもまあ、全国目指す感じじゃないんだろうなあ」と心の中でつぶやき、刹那、イベント1がフラッシュバックする。これ、象徴的なシーンだと思います。久美子は本当は全国に行きたいんです。だけど本心が出てくる代わりに高坂麗奈のあの泣き顔が頭に浮かぶ。涙を流す麗奈を思い出すことで「ほら、全国を目指すのはあんなに大変なんだぞ、痛いんだぞ、苦しいんだぞ」と自らに言い聞かせる。そうして封じ込める。お得意の合理化でやりすごしているんです。しかもたぶんこの時点では、無自覚に。このように挙げ始めたらキリがないんですが、作中には久美子の隠された本心が見て取れるシーンが多数登場します。

 そんなこんなで演奏技術が低い北宇治高校吹奏楽部に幻滅しながらも新しくできた友人の葉月や緑輝に誘われて吹奏楽部の見学に行く久美子ですが、そこでなんと高坂麗奈と再会を果たしてしまう。これがイベント2です。

 

2.高坂麗奈との再会(イベント2)

 進学先にわざわざ遠い高校を選んでまで避けてきた高坂麗奈に再び出会ってしまった黄前久美子。そのショックは半端なものではありません。久美子の中にまたあの「もやもや」が巻き起こります。悩みに悩み一旦は吹奏楽をやめる決意までして帰宅した久美子ですが、中学最後のコンクールで吹いた地獄のオルフェの楽譜を見ながら当時の自分を思い出します。そして翌朝。登校した久美子の目に飛び込んできたのは、新品のマウスピース相手に悪戦苦闘する葉月の姿。葉月に音を出すコツを教える久美子の頭には、吹奏楽を始めた頃の自分──吹奏楽に夢中だった頃の自分の姿が浮かびます。この吹奏楽を始めたころの久美子は、壁の存在を知る前の久美子、すなわち内なる久美子の姿なんですよね。このシーンで過去の自分を思い出したことはすごく意味があると思います。つまり麗奈という「押し殺してきた自分を体現させた人物」と向き合うことは、間接的とは言え「押し殺してきた自分」そのものに向き合うことにほかなりません。久美子の中でイベント1の麗奈(=挫折する内なる自分)と過去の自分(=希望に満ちた内なる自分)がせめぎ合い、結果として後者が勝つんです。そういう内なる葛藤の末、久美子は吹部入部を決意したのではないでしょうか。

・三話、葉月が「やる気のない人たちにイライラしながら頑張るって、私は、なんか...」と愚痴をこぼしそれを聞いた緑輝が「久美子ちゃんはどう思いますか?」と尋ねるシーン。

 もちろん、内なる自分を体現した存在である高坂麗奈と向き合うこと=内なる自分を守る鎧を取り払うことではありません。ですから依然として久美子は今までのままです。三話で姉から「またユーフォじゃん」と言われて何も言い返せない様子などからもまだまだ久美子の人格に変化が起きていないことがわかりますね。しかし、です。このシーン、今までの久美子なら間違いなく言葉を濁します。実際、そうしようと思っていたはずです。ところが久美子が口を開きかけた瞬間、グラウンドに麗奈が吹く「新世界より」が響き渡る。作中でも説明がありましたがこの新世界よりドボルザークが何もないアメリカ(=新世界)で作った曲なんです。この「新世界」、余計な人間関係や世間体を一切視界の中に映さずただひたすらにトランペットだけと向き合わんとする麗奈の世界(すなわち内なる久美子が望む世界)を連想させませんか?つまり、心のうちでは「余計なことは考えず練習したい」と考えてはいるが口に出せない久美子の言葉を麗奈がトランペットを吹くことで代弁したのです。これは、久美子が麗奈と向き合ったことにより起きはじめた変化(この時点では内的な変化ではなく外的な変化ではあるのですが)を最初に見て取れる大事なシーンだと思います。

・五話、麗奈が久美子に滝先生をどう思うか尋ねるシーン

 まず話は四話で久美子と秀一が麗奈にキレられるシーンに戻ります。麗奈は滝先生のことが好きなので、他人が彼の文句を言ってるのを聞くのはもちろん腹立たしいんだと思うんですが、たぶんあの四話のシーンで怒ったのは久美子が売り言葉に買い言葉とは言え滝先生を否定するような言葉を言わされそうになって焦ったからだと思います。だからこそ、五話で改めて久美子に滝先生をどう思うのか聞くんですよね。一度夢中になると周りが見えなくなる自分を自覚した上で、内なる自分を体現した存在である久美子の冷静な意見を知りたかったからこそあそこで取り乱したんではないでしょうか。

・五話、中学のころの友人に会いに行こうと誘われた久美子がそれを断るシーン

 非常に物語的なシーンです。新しく最初からスタートしたいとの思いを抱えて北宇治に進学した久美子は麗奈と再会し少しずつ変わり始めた自分に気がつきます。もちろんそれは麗奈一人の影響ではなく滝先生が作り出した部全体の雰囲気の変化によるところも大きいのですが。

・六話、三人の合奏

 六話は葉月回?でした。上手く吹けずに悩む葉月をどうやったら元気付けられるか悩んだ久美子と緑輝は合奏をすることで葉月に吹奏楽の楽しさを教えます。そして同時に久美子自身も吹奏楽の楽しさを再発見します。

・七話、葵の退部

 五話のサンフェス、六話の合奏でかなり本来の自分を取り戻した久美子ですが、幼馴染である葵の退部騒動&オーディション開催決定を機にまた悩みモードに入ります。高校入学前に一度立ちはだかった二つの壁を高校入学後の高坂麗奈との再会に端を発した“吹奏楽に夢中になることの楽しさの再発見”により忘れかけていたときに再び目の前に壁が立ちはだかる。実に物語的な展開です。壁を“忘れる”のではいつかまた壁に出会ってしまう。だから“越える”必要がある。でもどうすればいいのか。万事休すかと思われた矢先、イベント3が起こります。

 

3.大吉山展望台での愛の告白(イベント3)

 さて、前章の最後で説明したとおり、いよいよ目の前の問題から逃げられなくなってきた久美子。そんな中偶然久美子は麗奈をあがた祭りに誘うことになり、そしてなぜか当日二人は山に登ります。あのシーンはビジュアル的な美しさだけでなく物語的にも非常に重要な意味を持っています。以下、各ポイントに着目しながら慎重にあの日の出来事を考察していきます。

イ)なぜ山なのか

 まずはこれ。なぜ麗奈は祭りではなく山を選択したんでしょうか。本人は作中で「他人と違うことがしたかったの」と言っていて、実際その通りだと思うんですが、じゃあなぜ他人と違うことがしたかったのかというと、おそらく久美子にもほかの人と違うことをさせることで「麗奈の側」に引き込みたかったからではないかと僕は考えています。八話までは常に麗奈とその他の人という構図が成り立っているんですよね。もちろんあすかのように物語を傍観する孤高の存在もいるんですが、麗奈はそれともまた違うんです。彼女の目指すところはほかの部員たちと同じで、だけどともに歩む存在がいない。孤高というよりは単に孤独なんです。しかも、夢中になると突っ走ってしまう性格がある。だからこそオーディションを前に「冷静な自分」の代弁者である黄前久美子を自分のカメラの中に入れたかった。それゆえ誰もいない山を舞台に選んだのではないでしょうか。

ロ)なぜ麗奈はとびきりのおしゃれをしたのか

 まあこれはもちろん他人と違うことをしたかったからとも取れるんですが、今回はもう少し奥まで突っ込みます。実は僕、今年の二月に大吉山展望台に行ってきたんですよ。で、そこで着想を得たんですがあのシーン全体的に視聴者に処女喪失を連想させるように作られているんですよね。いやもちろんあの時高坂麗奈が処女喪失を意識していたとかそういう話では全然なくてこれはただのメタファーに過ぎないんですけど、じゃあ何のメタファーなのかは少し置いといてどこら辺が処女喪失を連想させるのかという話をします。まず“純潔”の象徴である真っ白なワンピース。そして“痛いけど”“嫌じゃない”という台詞。山を登るという運動により“上がる息”。さらには“靴を脱ぐ”という脱衣の暗喩。これはたまたまそうなったとか僕が普段そういうことばかり考えてるからそう見えたとかそういう話ではありません。明らかに狙ってやっていると思います。では、なぜでしょう。なぜ制作側はあそこで処女喪失を連想させたのでしょう。それは、あの日の大吉山で“麗奈が生まれて初めて他人を自分の中に受け入れた”ことを暗に示すためではないでしょうか。(つまり二重のメタファーです。)いままで興味がない人間とは一切関わってこなかった麗奈は、トランペットだけを見て生きてきました。もちろん、滝先生に恋心を持っているので滝先生のことは頭の中にあると思うのですが、これは思春期女子にありがちな「実在ではなく性質に恋をしている」というやつだと思います。もっと言えば「滝先生というすごい人に恋する自分」を演出しているだけというか。(これは正直高坂麗奈本人に聞かない限りはわからないのですが)そんな中黄前久美子に出会い、彼女の持つ冷静さに目を留めた。この先もっと特別になるためには、久美子が必要だと考えた。そこで、久美子を自分の世界の中に引き込んだんです。

ハ)なぜ楽器を持っていったのか

 新世界よりのときもそうでしたが、麗奈は自分の気持ちを表現するのに言葉ではなく楽器を使うんですよね。で、今回も例に漏れず久美子を受け入れたいという強い思いを曲に乗せます。曲名は「愛を見つけた場所」。互いの中に互いを感じるという強烈なシンパシー、あるいは信頼、あるいは友情を“愛”と表現するための選曲だったのではないでしょうか。

   あの日大吉山で「特別になりたい」という麗奈の決意を聞いた久美子は、麗奈を応援したいと感じます。自分だけに話してくれたのが嬉しかったと言うのももちろんあると思いますが、本質は別のところ、すなわち特別になりたい麗奈を応援することによる間接的な自己肯定にある。いままで押し殺してきた自分は実は正しかったかも知れない。しかしまだわからない。だからとりあえず麗奈を応援するんです。久美子は、麗奈の背中を押すことでその背中越しにうっすらと自分たちの前に立ちはだかる壁の姿を見ている。

 こうして、久美子は少しずつ壁に挑み始めます。オーディションに受かってコンクールに出たい。しかしそのためには先輩たちと競い合わなければならない。目をそらせないからこそ怖いと感じる。以前の久美子にはありえない感覚だと思います。そんな時、やはり勇気付けてくれるのは高坂麗奈です。「私も頑張るから頑張って」という台詞は、「久美子の一歩先を行く麗奈」という構図を良くあらわしています。

・十一話、久美子が優子に「この音どう思う?」と尋ねられるシーン

 オーディションが終わったのもつかの間、滝先生が麗奈を贔屓したのではないかといううわさが立ちます。以前の久美子であれば、間違いなく関与しなかったでしょう。しかし、イベント3で特別になりたいという麗奈の決意を聞いた久美子は、麗奈の側に立ちほかの部員と戦います。そんな中で印象的なのがこのシーン。「ソロにふさわしいと思います!」と答える久美子は、かつて自分の前に立ちはだかった「先輩」という壁を麗奈が越えられるようにその背中を押そうとしているんです。

そして物語はクライマックス、再オーディション(イベント4)へと向かいます。

 

4.再オーディション(イベント4)

 高坂麗奈が先輩である中世古香織と真っ向から対決する。それは久美子が中一の夏以降ずっと避けてきた構図そのものです。だからこそ、オーディション前のやり取りで久美子はあそこまで熱くなったんだと思います。かつて自分が越えられなかった壁を麗奈には越えてほしい。そういう強い思いがあったのです。自分の前を行く麗奈が壁を越えれば自分自身も勇気付けられますからね。そして再オーディションを経て、「麗奈が特別になるのが見たい」という思いは「特別になりたい」という直接的な意志に変わります。自分が背中を押していた麗奈は見事壁を越えた。壁の“こちら側”に一人残された久美子は、今度こそ自分の力で壁を越えようとします。

 ・十二話、保健室

  再オーディションを見て、上手くなりたいという熱病に冒された久美子。合理化の鎧を脱ぎ捨てた彼女は、どこまでも自分の気持ちにまっすぐです。「そもそも今までの自分はどんなだったのか」という台詞に四つのイベントで彼女の人格に起きた大きな変化が伺えます。

 ・十二話、「上手くなりたい!」のシーン

  泣けます。めちゃくちゃ泣けます。ついに久美子はイベント1の時の麗奈に追いつく。「悔しくて死にそう」という思いをめいいっぱい表に出す。最高のシーンです。

 ・十二話、自室で姉と言い合うシーン

  泣けます。死ぬほど泣けます。ついに自らの力で壁をうち破った久美子。「音大行くつもりないのに続けて意味あるの?」という姉の問いに(姉の問いであることに意味があるんです!かつて受験を理由に吹奏楽をやめた姉!その姿を見て本当の自分を押し殺すようになった久美子!しかし!もう久美子は昔の久美子ではない!姉のほうをしっかり見て!久美子は!)「意味あるよ、私、ユーフォが好きだもん。私、ユーフォが好きだもん。」と返す。「好き」、それだけでいいんです。好きだからユーフォを吹く。それ以外は考えなくていい。それが、麗奈と出会い久美子が見つけた「答え」です。

 ・十二話、ラストシーン

  「努力したものに神様が微笑むなんて嘘だ。だけど、運命の神様がこちらを向いてウインクをし...」という久美子の台詞。久美子らしいですね。合理化の鎧を脱ぎ捨て目の前の壁を打ち破った久美子。眼前には果てしない未来が広がっています。これぞ、青春です。  

 ひたすら何かに夢中になった経験、これは、間違いなく人生の財産になります。アニメ響け!ユーフォニアムは中高でまじめに部活に打ち込むことなくただただ時間を浪費した僕にとても大切なことを教えてくれました。ありがとうスタッフ。ありがとう声優の皆さん。ありがとう高坂麗奈。そして、ありがとう黄前久美子

 

5.おわりに

 僕の考察はここで終わります。アニメの考察って生まれて初めて書いたのですが、すごく大変でした。日ごろ考えていることを文章化するのって意外と骨が折れますね。でも、楽しかったです。すごくいい経験になりました。と同時にまだまだ鍛錬が必要だなあとも感じました。修行を積んで機会があればまた何か書きたいです。その時はまたよろしくお願いします。それでは。

物語の再定義とそこから得られるオタクの分類

 

今回ついにブログを始めることにしたのですが、最近長い文章を全然書いていなかったのでウォーミングアップをかねて僕が普段考えてること(物語論)をそこはかとなく書きつくっていこうと思います。

 

  1. カメラと物語について

「物語」と一口に言ってもそこには多種多様な認識、解釈があります。それ故、たとえばこの先僕が投稿するであろうアニメの批評や感想において「これは非常に物語的な展開であり云々」のようなフレーズが出てきた際、読者諸君の混乱を招いてしまうことが予想されます。(アニメは物語なんだから物語的なのは当然だろう?みたいな疑問が生じてしまうだろうということです。)そこで、あらかじめ僕が考える「物語」とはどういった概念であるかを説明しておきたいと思います。

 さて、この世に星の数ほど存在する「物語」と銘打たれた文章、漫画、映像等に共通する要素とは何でしょう。僕はズバリ、「世界のある出来事に関連した複数の場面をカメラによって切り取り、それらを意味が通るように張り合わせたものであること」ではないかと考えています。ただし、ここで言う「世界」とはわれわれの住む世界でも良いですし、創作により生み出された架空の世界でも構わないとします。とにかくなんらかしらの世界のいくつかのシーンをカメラによって切り取り、時にはそのまま、時には文章化して張り合わせる。こうして出来上がったものが物語です。カメラは写したいものだけを写すことができますし、逆に言えば写したくないものは徹底的に排除することができますね。つまり、物語において、そこに登場する人、事物、現象は意図的に切り取られたものであり、そのすべてに登場の理由がある。端的にいえば、物語においては原因-結果という因果関係が整然と成り立っています。この、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っている」ことこそが物語の特徴、性質であると言えるのではないでしょうか。と、少なくとも僕は考えています。これらのことを踏まえると、例えば僕が使う「物語的である」というフレーズは、「その場面に登場するキャラクターたちは皆登場するべくして登場したのであり、その役割は彼/彼女にしか担えないものであり、その行為一つ一つに非常に大切な意味がある ああ凄い なんて感動的なんだろう」といった趣旨であると言えます。また逆に、「非物語的である状況」というのは、なんだか原因のはっきりしない理不尽な仕打ちを受けたり誰も幸せにならない出来事が起きたり無駄な努力をしている状況を指します。

2.人生は物語である

  少し話題を変えます。我々は今現在、「人生」というレールの上を歩んでいますね。このレールはもちろん後ろにも前にも、つまり過去にも未来にも存在しますが、今回は過去のレールに着目します。この「過去の人生」、別の言い方をすれば「あなたの記憶の中に存在するあなたがこれまで生きた軌跡」、これも「物語」であると言えます。この地球という″世界″において″あなた″という人物について起きた一連の出来事を″あなた自身の目″というカメラで切り取り″脳″に記録した物語、それこそがあなたのこれまでの人生です。就職して結婚して子供を作って庭付き一戸建てに住むという物語、ミュージシャンになり酒と女とROCKに溺れる物語、…人の数だけ物語があります。ですが、如何に多種多様な人生を歩んでいようと、人は皆「非物語的な」人生を嫌います。努力が実らなくて喜ぶ人はいません。誰も幸せにならないような行為を積極的に行う人はいません。  しかし、避けても避けても人生の非物語化が起きてしまう場合があります。僕はこれを「人生の物語化の失敗」と呼んでいます。人生の物語化の失敗はいつ起きるのでしょうか。それはもちろん人生と言う物語に不可避的に「非物語的な要素」が食い込んできたときです。ですが、この「非物語的な要素」とは何でしょう。先ほどの定義に従えば、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っていない要素」と考えることができますが、これは「その物語が展開されている世界に登場してはならない要素」「カメラで世界を切り取るときに意図的に排除される要素」と言い替えることができます。

 人は生きていく中でいろいろな物語に出会います。そしてそれらの物語の中で気に入ったものを自分の人生の物語の指標にします。たとえば小学生のころ、有名なプロ野球選手Aの自伝小説を読み、彼が子供のころに行っていた練習法を真似てみた経験がある人がいるかもしれません。これはまさに「プロ野球選手Aの人生と言う物語」をそのまま自分の人生の指標とした例です。当然、こんなに単純な例は少ないですが、誰しもがそれまでの人生で出会った物語たちの一部をつなぎ合わせて、あるいは共通する部分を取り出して、自分の人生の物語の指標とします。これを「固有物語」とでも名づけましょう。この固有物語の世界に想定されていない要素が飛び込んできたとき、その人の人生の物語化は失敗します。

  こう書くと物語化の失敗はなんだか絶望的な出来事のように感じられますが、決してそんなことはありません。仮に固有物語に非物語的な要素が舞い込んで物語化の失敗が起きても、その要素が消えてしまえば人生の再物語化は可能です。「嫌な思い出」として忘れ去ってしまったり、「痛い教訓」として無理やりその他の出来事との因果関係に取り込んでしまったりすればよいのです。

 

 

3.二種類のオタクの発生

  ここからは一般論をやめ焦点をオタクという人種に絞ります。オタクという人種を論ずるに当たってまず、オタクを大きく二つに分類します。第一のオタクが「人生の物語化に失敗していないオタク」(以下オタク1)。第二のオタクが「人生の物語化に失敗したオタク」(以下オタク2)です。オタク1とオタク2は通常区別されずに語られることが多いですが、僕は両者の間には絶対的な断絶があると考えます。それどころか、現代社会で生じているオタクたちの醜い争いはどれもこの断絶に起因するとすら考えています。以下では「物語化」の観点から二種類のオタクを慎重に考察し、場合によってはさらに細かな分類を与えていきます。 

 ではまず、オタク1について。先述の通り、オタク1は自身の人生の物語性を保ったままオタクの道に足を踏み入れた人々です。彼らの人生の物語は正常に展開し、その世界は純粋性を保っている。世界が純粋性を保ったままオタク化したということは、オタクコンテンツを「物語的な要素」と捉えて自身の世界に取り込んだと言うことです。すなわち、「自分の世界の中で、自分のカメラを用いて」オタクコンテンツを鑑賞している。一方で、オタク2はどうでしょう。人生の物語化に失敗したオタク2の世界はもはや純粋性を保っていない。目を背けたくなるような景色が広がっている。そこで彼らが目を背けた先がオタクコンテンツなのです。ここで、オタク2をさらに細分化します。ここで着目するのが「非物語化の発端の違い」です。まず第一に、自分以外が発端となり非物語化が起きた場合。つまり、物語化に失敗したものの自分自身の物語性は保っている場合です(これをオタク2aとでも呼びましょう)。こういうケースではオタク2aは自分の人生以外の物語の世界に自分自身を要素として取り込むことで人生の物語性を保とうとします。これは、「その物語の世界の中で、自分のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞しているといえます。まあ早い話、自分が主人公になったつもりであれこれ妄想したりするのがこれに当てはまります。では、非物語化の発端が自分であった場合(オタク2b)はどうでしょう。これが第二のケースなのですが、オタク2bはもはや「自分」という存在を完全に排除した状態で物語を鑑賞します。「出来合いの物語」を自分の人生の物語として代用してしまうのです。つまり、「その物語の世界の中で、その物語のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞するのです。

4.まとめ

  以上が僕が普段考えてることの概要です。僕は先の分類に倣えばオタク2bに該当するのでオタク1やオタク2aのことはイメージで書いていくしかなかったのですが、どうでしょうか。ここはおかしいんじゃないかみたいなところがあったらばんばん指摘してください。適宜訂正を加えますので。

  2017-02-26追記

約一年ぶりにこの記事を見直し、脱字が一箇所あったのと不要と思われる箇所が一箇所あったのを省きました。全体的に表現が稚拙でお恥ずかしい限りなので総書き直しをしたいくらいなのですが、初心を忘れない為にもあえてそのままの形で残すことにします。