kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

立体的日常系論~サザエさん時空からゆゆ式時空へ~

春ですね。kramijaです。毎年春になると思い出すのが、2013年春に放映したアニメ「ゆゆ式」です。と言うことで今回はアニメゆゆ式の話をします。(以上、導入終わり。)

 正確には「一般的な日常系アニメというのはどういうもので、アニメゆゆ式はどういう点で新しく、その新しさが意味するところとはいったい何なのか」という話をするのでアニメゆゆ式を視聴していない読者の方でも楽しめると思います。というか実を言うと僕もゆゆ式はアニメしか見たことがなく、コアなファンとは言えないのでコンテンツに突っ込んだ話はあまりできないので安心してください。ではやっていきましょう。

 

1.日常系の発生経緯

  まずは一般的な日常系アニメの話から。日常系というワードをインターネットで検索してみると、「劇的なストーリー展開を極力排除した、登場人物たちが淡々と日常を送るもの(ニコニコ大百科より引用)」等の当たり障りの無い説明が出てきます。Wikipediaなんかで検索するともっと長々とその歴史や定義を語ってくれるので面白いです。面白いですが、長いです。長い上に不正確です。不正確というのはどういうことかと言いますと、どのサイトでも日常系を特徴づける性質として「物語性が希薄であること」「因果関係が存在しないこと」を挙げているんですよね。これは明らかな誤認識ではないでしょうか。僕はむしろ日常系ほど因果関係が明確な世界設定は無いと考えています。例えば、いわゆる「爆発オチ」のコマあとそのキャラが何事も無かったように振舞う姿などを取り出して「因果関係を放棄している」などと評価したのでしょうが、これは非本質的かつ一面的な見解であると僕は考えます。なぜなら、日常系の根幹を成す本質的な要素はキャラ同士の掛け合いで、その掛け合いは非常に整然とした因果関係で成り立っているのです。あるキャラが喜ぶとき、すべての読者はその原因を一意に定めることができる。悲しむ時、怒る時も同様です。誰もがその理由をはっきりと述べることができる。これはひとえに物語が明確かつ短距離の因果関係で紡がれているためです。よって、日常系を「非物語的である」と評するのは大きな間違いです。「本質的な物語性を追求した結果非本質的な部分の因果関係が不明瞭になった」と書く方がよほど正確です。そして話を元に戻しますと、この感情の明確かつ短距離の因果関係こそファンが日常系作品に求めることなのです。現代を生きるオタクの皆さんは往々にしてコミュニケーションが不得意です。現実世界で他者の感情の機微が読み取れず苦労すると言う経験が日常茶飯事であり、複雑かつ長距離の因果関係に嫌気が差し、それ故日常系という平面的なコミュニケーションに惹かれる。今回はアニメの話なのでオタクの話には深入りしませんが、とにかくこういう経緯で日常系ブームが発生したのではないかと僕は考えています。(Wikipediaさんやニコニコ大百科さんには全然違うことが書いてあるので皆さまにおかれましては自ら理性を働かせてどちらが正しいか判断してください。)

 

2.一般的な日常系の手法

  では次に一般的な日常系がどのような手法で明確かつ短距離の因果関係を実現しているかを考えていきましょう。そもそも、明確かつ短距離の因果関係は弱い感情のもとでしか成立しません。強い感情は一朝一夕で構築されるものではなく、その発生には必ずや複雑に入り組んだ因果関係が必要となります。つまり、強い感情を入れようとすると否応なく物語の因果関係は複雑かつ長距離となるのです。それ故、日常系は強い感情を排除する。では、強い感情を入れないためにはいったいどんな手法を用いればよいのか。それはズバリ、「世界を平面的に構成すること」ではないかと僕は考えています。一般的な日常系アニメはいわゆる「サザエさん時空」で展開されますね。これは我々の住む現実世界から時間軸を取り去り次元をひとつ下げたある種平面的な時空です(ある区間内での時間の流れは存在するので時間の不可逆性を取り去ったと形容したほうが正確ですが)。このサザエさん時空においては時間の不可逆性がもたらすさまざまなイベントが発生せず、それに従い強い感情も排除されます。同時に、精神的変化や成長が存在しないためキャラの性格も平面的になり、この「平面化」により一人のキャラに様々な属性を背負わせることが難しくなった結果、新たな属性を導入するたびにキャラを増やす必要があります。一般的な日常系アニメの登場キャラ数が多い理由はこう説明すると筋が通りますね。

 ここでひとつ補足を。僕は普段twitterなどでも弱い感情・強い感情と言う単語を使ってしまうのですが、今回登場した弱い感情、強い感情と言う区別は僕が普段用いているものとは異なります。僕が百合等を論じる時に用いる感情の強弱は相対的なもので、具体的に言うと性衝動などの本能的な感情を強い感情、それ以外のものを弱い感情としています。しかし今回扱っている感情の強弱は絶対的なものです。弱い怒りや弱い喜び、弱い悲しみを弱い感情と表現しました。紛らわしくてすみません。

 

3.アニメゆゆ式の登場

  さて、「平面化」が明確かつ短距離の因果関係構築のための便利な手法であることはお分かりいただけたかと思います。では、平面化は日常系であるための必要条件なのでしょうか?平面化無くして日常系は成り立たないのでしょうか?この問いに対する答えがアニメゆゆ式です。ゆゆ式は縁、ゆずこ、唯という従来の日常系的(=平面的)関係で結ばれた少女たちを時間の不可逆性が存在する時空にどれだけ整合性を保ったまま入れられるかというある種実験的な試みとしての側面を持っていたのではないかと僕は考えています。それは、主要キャラ三人だけ髪の色が古典的日常系色で、それ以外の人間は全員常識的な色をしていることからも伺えます。三人は平面から「抜き出され」て、立体の中に「入れられ」たのです。そして、結論から言えばその実験は成功しました。平面化は日常系のための必要条件ではなくただの便利な手法の一つに過ぎなかったのです。以下では、日常系を立体的に展開することにより具体的にはどのような点に変化が起き、どのような点には変化が起きなかったのかを作中でのエピソードを交えながら考察していきたいです。考察していきたいのは山々なのですが、最近やっと気づいたことがあって、文字だけのブログを8000字くらい書いても誰にも読んでもらえないんですよね(とても悲しい)。そこで今回はごくごく簡潔にその実験の結果を述べます。

 時間が不可逆に進行する時空に閉じ込められた三人は、その不可逆性ゆえほかの日常系作品では見られない関係性を構築します。その性格は立体的な構造を成し、たとえばゆずこは「成績優秀でありめがねキャラでもありながら基本はボケ担当のお調子者」という普通の日常系の三人分くらいの人格を一身に引き受けています。また、彼女たちの人間関係も同様に立体感を獲得します。例えば相川さんと三人の関係は物語初頭と終盤でまったく異なるものとなっています。これは、固定された時間軸で展開される平面的な人間関係では絶対に実現不可能な現象です。また、第五話「唯と縁 とゆずこ」に見られる三人の絶妙な距離関係も時間軸の存在により実現されました。一般的な日常系にも幼馴染は登場するのですが、それはあくまで属性のひとつに過ぎず、時間的な立体感が効いてくることはありませんでした。幼馴染であれ中学から知り合った友人であれその心理的距離は等距離であると言うのが今までの常識だったのです。しかし、ゆゆ式五話はこの常識を打ち破りました。そして極めつけは彼女たちが死を認知していると言う事実。三人の少女たちはそこから目を背けずにしっかりと向き合っている。時間の不可逆性を入れればそこに死の概念が入り込むのはまあ自然なことと言うか避けられない展開なのですが、これをわざわざ作中で取り上げたのが三上先生のすごいところです。当たり前ですがこれも従来の日常系では絶対に実現し得ない話です。とまあ語りだすとキリが無いのですが、ともかくここで重要なことは、人間性、人間関係、世界観が立体的な構造を成した状態でも弱い感情による明確で短距離の因果関係は成り立っている、と言うことです。これは本編を見ていただければわかるのですが、ゆゆ式は明らかに日常系です。一切の強い感情が存在しない。これは明らかに先述の実験の成功を意味しています。ゆゆ式は「立体的な時空においても日常系は展開し、それどころか従来の日常系には成しえなかった様々な奥深さを獲得することができる」ことを示したのです。そう、アニメゆゆ式という実験の成功により日常系はサザエさん時空のみならずひとつ次元が上のゆゆ式時空上でも成り立つのだということが証明されたわけです。すごいぞゆゆ式。ありがとうゆゆ式

 

4.おわりに

本当はこの十倍くらい語りたいのですが今回はここで切り上げます。気が向いたらこの記事を既知としたゆゆ式考察8000字みたいなのを書くかもしれないです。そのときはまたよろしくお願いします。それでは。