kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

お前の百合は何色だ

1 俺は性欲が嫌いだ

    ご無沙汰しております、kramijaです。皆さんは性欲、好きですか?僕は嫌いです。別に性欲が嫌いだからと言って僕に性欲が無いわけではないんですが(と言うか僕はとびきりエッチなオタクです)、とにかく僕は性欲と言うやつが大嫌いです。というのも、性欲って感情としてものすごく強いんですよね。本能そのものなので、ほかの繊細な、非本能的な感情を一瞬で消し炭にしてしまう。本当に反知性的で最悪な感情です。しかし残念ながら、本能に直結した感情だからこそ、あらゆる場面で登場してしまいます。こんなに性欲を憎悪する僕が時に淫獣と化してしまうことからもわかるように(?)、人は性欲の魔の手から逃れられません。これはもうどうしようもないことだと思います。そう、もう僕たちにできることは、性欲に汚染されていない数少ない清澄な感情を大切に大切に尊ぶことだけなのです。

僕はこの清澄な感情に、百合という名前をつけました。

 

2 お前の百合は何色だ

   のっけから異常な論理の飛躍を見せて読者の皆さんを困惑させてしまったことと思います。落ち着いて、順を追って説明しましょう。そもそも、みなさんは百合の定義をご存知ですか?僕は知らないです。というか、一般性をもった百合の定義って存在するのでしょうか。僕は以前twitterで歴史的文脈を乗せた百合の定義のようなもの(厳密には百合を定義しようとした人への批判)やそれに対する批判やそれに対する批判に対する批判(以下略)を見ていて、現代の百合と言う概念に統一的な定義を与えることはほぼ不可能になっているのではないかと感じました。統一的な定義を与えられない以上、それぞれの人間が独自に持つ百合の概念のうち自らが持つそれと一致する部分を見出して盛り上がったり食い違う部分について議論したりして少しずつ思想を摺り合わせて行くほかありません。ですが、世の人々が持つ百合の概念はほとんどが帰納的に獲得されたもので、どこか曖昧です。この人の百合観は僕の百合観に一致しているような気もするし、していないような気もする…ともどかしい思いをしたことも何度もあります。そこで、演繹的に自分の思う百合を定義しようじゃないかと言うことで実験的に「演繹的な百合の定義」を行うべくこの記事を書くことにしました。

このような経緯のもと、まずは最初の要請として「百合とは性欲に汚染されていない清澄な感情である」を打ち立ててみたわけです。実際この時点でかなりのオタクと対立することになってしまうと思います。少女たちが粘膜を接触させるイラストを捕まえて「百合だ…」などと評するオタクの皆さんがとても多いですからね。まあ今回は俺の百合を見てくれという感じでやっていくので他人の百合に文句を言うのはあまり気が進まないんですが、粘膜接触を百合に含めるなら百合と同性愛の区別をどうやってつけるんでしょうか。それとももはや区別はつけないんでしょうか。まあ良いです。今回はぼくが考える百合の話です。僕の百合の話を続けます。

 

3 俺の百合は夏の空に浮かぶ入道雲の色だ

   以下では「性欲に汚染されていない清澄な感情であること」を要請として作り上げられる僕の思う百合の姿について語っていきたいと思います。

まず、性別について。百合っつったら女の子同士だろ!と思うかも知れませんが、これもおそらく帰納的に身につけられた厳密でない百合の概念であると思われるので一度捨てましょう。あくまで要請は「百合とは性欲に汚染されていない清澄な感情である」だけです。とはいえ、この要請から推論される百合についても基本的には「百合は女の子同士」の概念が当てはまります。少し男女差別的な発想になってしまうのですが、一般的に女子より男子のほうが性欲は強いとされていますよね。世の中に男と女を両方経験した人間はいないので真実はわからないのですが、僕自身もまあそうなんじゃないかなと思っています。ですので、「百合は男子と比べて性欲から遠いところにいる女子の間で発現しやすい」と言えることは確かなことでしょう。しかし、(ありえんエッチなオタクであるところの僕には想像もつかないことですが、)世の中には性欲から遠いところにいる男性と言うのも存在しているかもしれません。例えば、ハーレムものアニメの主人公なんて基本的に一切の性欲を見せませんよね。まあハーレムものアニメは往々にして女性陣が性欲にまみれているので間違っても百合とは言えませんが、例えばGJ部のようなケースは微妙なところです。もちろん詳細な考察は必要ですが、もしかするとGJ部員の関係は百合と表現できるかもしれません。話が逸れましたが、僕の百合においては「基本的には百合は女-女で発現するが、場合によっては男-女、時には男-男に発現する可能性もある(この場合は精査が必要)」であることが結論できました。

では次に年齢について。年齢について考えるに当たってまず、要請の解釈を行います。すなわち、「性欲に汚染されていない」とは「性欲を選択肢として持たない」なのか「性欲を知った上でそれを選択しない」なのかあるいはその両方なのかを考える必要があります。最初の解釈を採用した場合、ちょっと変なことになります。というのも性欲を選択肢として持たない世代と言うのは思春期以前または十分年をとった後ということになるので、「小学生って百合なんだよな」「老夫婦って百合なんだよな」みたいなおかしな主張が出現しかねません。別にこのような主張を批判するわけではないですが、今回はなるべくみんなが共有している百合の概念に近づけたいのでこのような解釈は切り捨てて「性欲を知った上でそれを選択しない」を採用したいと思います。ここでこの解釈にさらに踏み込みます。なぜなら、性欲を知った上でそれを「意識的に」選択しない、なのか、あるいは「無意識的に」選択しないなのかでかなり違いが生まれるんですよね。意識的に選択しないと言うのはつまり総合的に価値判断を行った結果「性欲を選択することは不利になる」と考えて選択をしないと言うわけで、ここには何の尊さもありません。「一歩間違えれば性欲という巨大な濁流に飲み込まれてしまう本流脇の小川の清らかな流れに刹那的に興る彩色の生態系」にこそ何にも代えがたい価値があるのであって、「コンクリートで整備された本流の脇に作られた用水路」にはなんの価値も無いのです。(何を言っているんだ。)と言うわけで、僕は「性欲を知った上でそれを無意識的に選択しなかった結果としての清澄な感情」を百合と呼びます。これが実現する年齢ですが、性欲を知っていてなおかつまだそれとの付き合い方を心得ていない年齢と言うことになりますので、思春期に限定されると思います。

追記1:ブログ公開後、多数の方から「自分は性欲を意識的に回避する関係性も百合だと思う」と言う意見をいただきました。そして、これらの意見を頂いて初めて、自分は性欲の意識的な回避を「損得勘定に基づいて性欲を一時的に隠すこと」に限定していたことに気づきました。言われてみれば確かに、これ以外にも性欲の意識的な回避は存在しますね。もちろん今すぐに僕の百合の定義を改めることはしませんが、これからはそういった感情を扱った作品にもアンテナを張り、自身の百合観の更なる発展に役立てて行きたいと思います。意見を下さった皆さんありがとうございました。

最後に、人数について。まず、この絵を見てほしいんですが、僕の中で百合と恋愛は完全に別物です。

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関連:立体的日常系論~サザエさん時空からゆゆ式時空へ~ - kramija’s blog

この図自体は適当に描いた意味不明なものなのですが、とにかく恋愛と性欲って絶対に切り離せないものだと思うんですよね。これは別に悪い意味ではありません。ただ恋愛と百合は性欲という軸を設定すると明確に分けられるというだけです。しかし、一般的にはこの二つはあまり区別されていないようで、恋愛はもちろん二人で行うものなので百合もそうなんじゃないかみたいな固定観念を持っている方が多いかもしれませんが、僕はそうは思いません。百合に人数制限は無いと思います。(twitterで一時期三人からが百合だみたいな主張をしている一団がいましたが別に僕は彼らの味方でもないです。あくまで人数の指定がないと主張しているだけであって、二人でも百合だと思います。)

 

4 おわりに

   また長々と書いてしまいました、すいません。一応かなり削ったつもりなのですが。とにかく、これが僕の百合の色です。もちろん、この定義を他人に押し付けるわけではありません。理系の人間なので定義をしっかりしておかないと議論に進めないのでブログとして形にしただけです。本当はこのブログを読んだ方が「俺の百合はこうだぜ!」みたいな返答(例えそれが批判的な内容であっても)をくれるとあったけえインターネットを感じられて最高なのですが、なにしろインターネットのお友達が少ないので期待しないでおきます。もしよかったら書いてね。