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kramija’s blog

アニメの女の子と現実のオタクの話をします。Twitter:Pasupu_otaku

物語の再定義とそこから得られるオタクの分類

 

今回ついにブログを始めることにしたのですが、最近長い文章を全然書いていなかったのでウォーミングアップをかねて僕が普段考えてること(物語論)をそこはかとなく書きつくっていこうと思います。

 

  1. カメラと物語について

「物語」と一口に言ってもそこには多種多様な認識、解釈があります。それ故、たとえばこの先僕が投稿するであろうアニメの批評や感想において「これは非常に物語的な展開であり云々」のようなフレーズが出てきた際、読者諸君の混乱を招いてしまうことが予想されます。(アニメは物語なんだから物語的なのは当然だろう?みたいな疑問が生じてしまうだろうということです。)そこで、あらかじめ僕が考える「物語」とはどういった概念であるかを説明しておきたいと思います。

 さて、この世に星の数ほど存在する「物語」と銘打たれた文章、漫画、映像等に共通する要素とは何でしょう。僕はズバリ、「世界のある出来事に関連した複数の場面をカメラによって切り取り、それらを意味が通るように張り合わせたものであること」ではないかと考えています。ただし、ここで言う「世界」とはわれわれの住む世界でも良いですし、創作により生み出された架空の世界でも構わないとします。とにかくなんらかしらの世界のいくつかのシーンをカメラによって切り取り、時にはそのまま、時には文章化して張り合わせる。こうして出来上がったものが物語です。カメラは写したいものだけを写すことができますし、逆に言えば写したくないものは徹底的に排除することができますね。つまり、物語において、そこに登場する人、事物、現象は意図的に切り取られたものであり、そのすべてに登場の理由がある。端的にいえば、物語においては原因-結果という因果関係が整然と成り立っています。この、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っている」ことこそが物語の特徴、性質であると言えるのではないでしょうか。と、少なくとも僕は考えています。これらのことを踏まえると、例えば僕が使う「物語的である」というフレーズは、「その場面に登場するキャラクターたちは皆登場するべくして登場したのであり、その役割は彼/彼女にしか担えないものであり、その行為一つ一つに非常に大切な意味がある ああ凄い なんて感動的なんだろう」といった趣旨であると言えます。また逆に、「非物語的である状況」というのは、なんだか原因のはっきりしない理不尽な仕打ちを受けたり誰も幸せにならない出来事が起きたり無駄な努力をしている状況を指します。

2.人生は物語である

  少し話題を変えます。我々は今現在、「人生」というレールの上を歩んでいますね。このレールはもちろん後ろにも前にも、つまり過去にも未来にも存在しますが、今回は過去のレールに着目します。この「過去の人生」、別の言い方をすれば「あなたの記憶の中に存在するあなたがこれまで生きた軌跡」、これも「物語」であると言えます。この地球という″世界″において″あなた″という人物について起きた一連の出来事を″あなた自身の目″というカメラで切り取り″脳″に記録した物語、それこそがあなたのこれまでの人生です。就職して結婚して子供を作って庭付き一戸建てに住むという物語、ミュージシャンになり酒と女とROCKに溺れる物語、…人の数だけ物語があります。ですが、如何に多種多様な人生を歩んでいようと、人は皆「非物語的な」人生を嫌います。努力が実らなくて喜ぶ人はいません。誰も幸せにならないような行為を積極的に行う人はいません。  しかし、避けても避けても人生の非物語化が起きてしまう場合があります。僕はこれを「人生の物語化の失敗」と呼んでいます。人生の物語化の失敗はいつ起きるのでしょうか。それはもちろん人生と言う物語に不可避的に「非物語的な要素」が食い込んできたときです。ですが、この「非物語的な要素」とは何でしょう。先ほどの定義に従えば、「原因-結果という因果関係が整然と成り立っていない要素」と考えることができますが、これは「その物語が展開されている世界に登場してはならない要素」「カメラで世界を切り取るときに意図的に排除される要素」と言い替えることができます。

 人は生きていく中でいろいろな物語に出会います。そしてそれらの物語の中で気に入ったものを自分の人生の物語の指標にします。たとえば小学生のころ、有名なプロ野球選手Aの自伝小説を読み、彼が子供のころに行っていた練習法を真似てみた経験がある人がいるかもしれません。これはまさに「プロ野球選手Aの人生と言う物語」をそのまま自分の人生の指標とした例です。当然、こんなに単純な例は少ないですが、誰しもがそれまでの人生で出会った物語たちの一部をつなぎ合わせて、あるいは共通する部分を取り出して、自分の人生の物語の指標とします。これを「固有物語」とでも名づけましょう。この固有物語の世界に想定されていない要素が飛び込んできたとき、その人の人生の物語化は失敗します。

  こう書くと物語化の失敗はなんだか絶望的な出来事のように感じられますが、決してそんなことはありません。仮に固有物語に非物語的な要素が舞い込んで物語化の失敗が起きても、その要素が消えてしまえば人生の再物語化は可能です。「嫌な思い出」として忘れ去ってしまったり、「痛い教訓」として無理やりその他の出来事との因果関係に取り込んでしまったりすればよいのです。

 

 

3.二種類のオタクの発生

  ここからは一般論をやめ焦点をオタクという人種に絞ります。オタクという人種を論ずるに当たってまず、オタクを大きく二つに分類します。第一のオタクが「人生の物語化に失敗していないオタク」(以下オタク1)。第二のオタクが「人生の物語化に失敗したオタク」(以下オタク2)です。オタク1とオタク2は通常区別されずに語られることが多いですが、僕は両者の間には絶対的な断絶があると考えます。それどころか、現代社会で生じているオタクたちの醜い争いはどれもこの断絶に起因するとすら考えています。以下では「物語化」の観点から二種類のオタクを慎重に考察し、場合によってはさらに細かな分類を与えていきます。 

 ではまず、オタク1について。先述の通り、オタク1は自身の人生の物語性を保ったままオタクの道に足を踏み入れた人々です。彼らの人生の物語は正常に展開し、その世界は純粋性を保っている。世界が純粋性を保ったままオタク化したということは、オタクコンテンツを「物語的な要素」と捉えて自身の世界に取り込んだと言うことです。すなわち、「自分の世界の中で、自分のカメラを用いて」オタクコンテンツを鑑賞している。一方で、オタク2はどうでしょう。人生の物語化に失敗したオタク2の世界はもはや純粋性を保っていない。目を背けたくなるような景色が広がっている。そこで彼らが目を背けた先がオタクコンテンツなのです。ここで、オタク2をさらに細分化します。ここで着目するのが「非物語化の発端の違い」です。まず第一に、自分以外が発端となり非物語化が起きた場合。つまり、物語化に失敗したものの自分自身の物語性は保っている場合です(これをオタク2aとでも呼びましょう)。こういうケースではオタク2aは自分の人生以外の物語の世界に自分自身を要素として取り込むことで人生の物語性を保とうとします。これは、「その物語の世界の中で、自分のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞しているといえます。まあ早い話、自分が主人公になったつもりであれこれ妄想したりするのがこれに当てはまります。では、非物語化の発端が自分であった場合(オタク2b)はどうでしょう。これが第二のケースなのですが、オタク2bはもはや「自分」という存在を完全に排除した状態で物語を鑑賞します。「出来合いの物語」を自分の人生の物語として代用してしまうのです。つまり、「その物語の世界の中で、その物語のカメラに映る」オタクコンテンツを鑑賞するのです。

4.まとめ

  以上が僕が普段考えてることの概要です。僕は先の分類に倣えばオタク2bに該当するのでオタク1やオタク2aのことはイメージで書いていくしかなかったのですが、どうでしょうか。ここはおかしいんじゃないかみたいなところがあったらばんばん指摘してください。適宜訂正を加えますので。

  2017-02-26追記

約一年ぶりにこの記事を見直し、脱字が一箇所あったのと不要と思われる箇所が一箇所あったのを省きました。全体的に表現が稚拙でお恥ずかしい限りなので総書き直しをしたいくらいなのですが、初心を忘れない為にもあえてそのままの形で残すことにします。